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神戸地方裁判所 昭和53年(わ)1110号 判決

主文

被告人衣笠豊を懲役一〇年に、同田中末男及び同秋丸鹿一郎をいずれも懲役三年六月に、それぞれ処する。未決勾留日数中、被告人衣笠豊及び同田中末男に対してはいずれも七〇〇日、同秋丸鹿一郎に対しては六〇〇日を、それぞれその刑に算入する。

訴訟費用は、証人大森良春、同安田静男、同西中川勉、同西岡見一、同信西清人及び同持留健二に各支給した分を除き、その三分の一ずつを各被告人の負担とする。

理由

(被告人らの経歴等)

被告人衣笠は、兵庫県高砂市内の中学校を中退後、大工見習として、近畿各地の飯場を渡り歩いたり、一時、兵庫県姫路市内の土建会社で大工の下請などに従事していたが、昭和三四年ころ、神戸市兵庫区《番地省略》に本部を置く反山口組系の暴力団である忠成会の前身である新生会の幹部である丸山伊三郎の若衆となり、同三五年ころには同会の直系若衆となり、同四二年に右新生会が忠成会と名称を改め、大森忠昭会長を中心として結成されるや、同会幹事長補佐(若頭補佐)となり、同四四年からは、同会幹事長(若頭)の地位にあったもの、

同田中は、神戸市内の中学校を卒業後、神戸市内のゴム会社の工員、造船の下請工をして働くうち、昭和三九年ころ、前記新生会若衆となったが、同四一年、他の暴力団との抗争事件にからみ、殺人事件を起こして服役し、同五一年に出所した後、同年末ころに前記忠成会に迎えられ、同五二年一二月ころには、同会幹事長補佐(若頭補佐)の地位につき、前記衣笠を補佐していたもの、

同秋丸は、神戸市内の中学校を卒業後、工員、土工等に従事し、昭和四八年ころから、前記忠成会幹事清瀬忠雄の舎弟となっていたものである。

(罪となるべき事実)

第一  昭和五三年七月一一日京都市東山区所在のキャバレー「ベラミ」店内において、暴力団三代目山口組組長田岡一雄が拳銃で狙撃され負傷する事件が発生し、間もなく、警察当局によりその犯人は暴力団松田組系村田組内大日本正義団幹部鳴海清であると断定され、同人は殺人未遂事件の犯人として指名手配され、その所在捜査が開始された。ところで、前記忠成会の理事長である野村智昌は、同月一五日までに、右大日本正義団二代目会長吉田芳幸から、右狙撃事件の犯人が鳴海であることを打ち明けられるとともに同人の蔵匿方を依頼されてこれを引受け、同日、前記忠成会本部事務所三階において、被告人衣笠を同席させたうえ、同会幹事長補佐因幡弘幸に対し、当時名古屋市内の都ホテルに潜伏していた右鳴海を被告人田中とともに迎えに行くよう指示し、これを受けて右因幡は、そのころ右野村から右同様の指示を受けた被告人田中とともに名古屋市に赴いた。そして、右因幡及び被告人田中は、同市内から兵庫県三木市志染町広野五丁目二九所在の右野村の三木事務所まで右鳴海を連れて行ったうえ、同月一六日早朝、同所において、予め右因幡からの連絡により同所で待機していた被告人秋丸に対して右鳴海の蔵匿方を指示し、右指示に基づいて被告人秋丸及び右三木事務所の管理人である小南安正において、右鳴海を同所に住まわせて匿うこととなり、以後、同年九月一日までの間、右忠成会関係者らにおいて右鳴海を蔵匿したのであるが、その際、

一  被告人三名は、前記野村、因幡、小南及び近藤光男らと共謀のうえ、同年七月一六日から同月一九日ころまでの間、前記三木事務所に右鳴海を宿泊させ、

二  被告人三名は、前記野村、因幡、瀬田栄機、三谷寿昭らと共謀のうえ、同月一九日ころから同月二四日ころまでの間、神戸市兵庫区《番地省略》所在○○○○ハイツ△△×号棟×階×××号室の右因幡方に右鳴海を宿泊させ、

三  被告人三名は、前記野村、因幡、瀬田及び村岡明美らと共謀のうえ、同月二四日ころから同年八月八日ころまでの間、同県三木市《番地省略》所在の右村岡方に右鳴海を宿泊させ、

四  被告人衣笠は、前記野村、因幡、瀬田及び水原修らと共謀のうえ、同月八日ころから同月二二日ころまでの間(同月一〇日ころから同月一五日ころまでを除く)、同県加古郡《番地省略》所在○荘×階×号室の室井孝夫方に右鳴海を宿泊させ、

五  被告人衣笠、同秋丸は、前記野村、瀬田、小南らと共謀のうえ、同月二二日ころから同年九月一日までの間、前記三木事務所に右鳴海を宿泊させ、

もって、殺人未遂犯人である右鳴海を蔵匿した、

第二  被告人三名は、前記のとおり、鳴海清(当時二六年)を匿っていたところ、同人が被告人らに無断で大阪市西成区内の山水園の自室に舞い戻るなどの身勝手な行動に出たうえ、被告人衣笠らの強い指示により前記○荘に帰った後も再度右西成区近辺に戻りたがるなどのことがあって、これを持て余したことや、鳴海の蔵匿の間に被告人衣笠が前記吉田芳幸を介し右鳴海を唆して前記田岡一雄に対する挑戦状を書かせ、これを同人に郵送させていたため、右鳴海の口から忠成会関係者らが右鳴海を匿っていた事実や右挑戦状を書かせた事実が山口組関係者や警察当局に発覚することを恐れるあまり、被告人衣笠において、当時右鳴海が匿われていた前記三木事務所から、同人を縛り上げて連れ出したうえ殺害しようと企て、同年九月一日午後一一時過ぎころ、被告人田中とともに前記三木事務所に赴き、同所一階応接間において、被告人田中及び予め被告人衣笠から指示を受けて同所に待機していた被告人秋丸に対し、右鳴海を押え付けたうえ同人を縛り上げるよう命じ、被告人田中及び同秋丸はこれを承諾した。ここにおいて、被告人衣笠は、右鳴海を殺害する目的を持ち、同田中及び同秋丸は、右殺害の目的を有しないまま、右鳴海の身体を緊縛することを共謀のうえ、同日午後一一時四〇分ころ、右三木事務所一階六畳間で、被告人秋丸において、右鳴海を同所二階から呼び降ろしたうえ、その背後から両腕を締め付け、被告人田中において、右鳴海の両足首及び後手にした両手首をそれぞれ日本手拭で緊縛し、被告人衣笠、同秋丸の両名において、布粘着テープで右鳴海の顔面、頭部、両手首、両足首及び膝のあたり等に幾重にも巻き付けたうえ、翌二日午前零時過ぎころ、同所玄関前路上に停めていた普通乗用自動車の後部トランク内に同人を押し込み、もって、右鳴海の身体の自由を奪って同人を不法に監禁し、更に、被告人衣笠において、右鳴海を右自動車の後部トランク内に積んだまま右三木事務所から連れ去り、同日ころ、神戸市北区有馬町六甲山一九一九番地の一瑞宝寺谷山中又はその近辺において、右のとおり緊縛されたままの同人の胸背部をナイフ様の刃物で数回突き刺し、よって、そのころその場所付近において、同人を右刺創により失血死させて殺害した

ものである。

(証拠の標目)《省略》

(証拠説明及び弁護人の主張に対する判断)

第一弁護人らの主張

弁護人は、判旨第二の被告人らが鳴海清(以下、「鳴海」という)を前記野村智昌の三木事務所(以下、「小南方」という)において手拭及び粘着テープ(以下、「ガムテープ」ともいう)で緊縛したうえ、六甲山中で殺害した事実を争い、かつ、被告人田中及び同秋丸において、捜査段階で同人に対する殺人(田中につき)又は逮捕監禁(秋丸につき)の事実を自白したことはあるが、右自白には任意性及び信用性がない旨主張し、また、被告人らも当時の状況につき、それぞれ大要以下のとおり弁解し、被告人ら三名が小南方で鳴海を縛ったこともなく、また、被告人衣笠、同田中が六甲山中において鳴海を殺害したこともないのであって、被告人らは右事実につき無罪であると主張する。

一  被告人衣笠の弁解

判示第一の○荘に匿ってから以降の鳴海の行方は知らない。九月一日は、忠成会の組事務所において大森会長と忠成会全組員との間の組の挨拶が行なわれるので、午前九時ころには組事務所に到着した。昼前に挨拶が終わってからは、近くの喫茶店へ行ったことを除き、終日組事務所の三階に詰めており、翌二日午前一時ころ、内妻のA子方に帰宅した。

二  被告人田中の弁解

九月一日は、組の挨拶が行なわれるので、朝から組事務所に出掛け、昼前に挨拶が終わってからは、神戸市内の稲荷市場で食料を買い込んで、その当時、二代目大日本正義団会長吉田芳幸を匿っていた同市垂水区千代ヶ丘の家に届け、その後、一旦組事務所に戻ってから帰宅した。その後は、翌二日の朝、組当番のため組事務所へ向かうまでは、自宅から一歩も外に出ていない。

三  被告人秋丸の弁解

八月二〇日か二一日に鳴海が一人で小南方を訪れてから、ずっと同所で同人を匿っていたが、同人は、同月二八、九日ころ、知らない間にどこかへ行ってしまった。九月一日の昼間は、三木の方に出掛けたかも知れないが、夜はずっと小南方にいた。しかし、誰もやって来なかった。

第二当裁判所の判断

当裁判所は、以下に述べるように、争いがなく証拠上も明白な客観的事実を前提として、鳴海の死が他殺であって、これに被告人らがそれぞれ関与しているものと認むべき間接事実の存在することなどを認定したうえ、被告人田中及び同秋丸の捜査段階における自白には任意性があり、少なくとも、鳴海を緊縛して小南方から搬出する時点までに関する右両名の自白については、信用性も十分認められること及び被告人らの前記の弁解が信用できないものであることを総合して判断した結果、本件は、小南方において、被告人三名が共謀のうえ鳴海の身体各部をガムテープ及び日本手拭で緊縛したうえ、同人を小南方から搬出し、更に、同人の殺害は被告人衣笠の所為によるものであるとの判示第二のとおりの認定に到達したので、以下順次その理由を説明する。

一  証拠上明白であると客観的に認められる事実

以下の各事実は、当事者間にほぼ争いがなく、前掲各証拠上も疑いなく認めることができる。

1 死体の状況

(一) 死体発見の経緯

昭和五三年九月一七日午後一時三〇分ころ、神戸市北区有馬町六甲山一九一九番地の一の六甲山瑞宝寺谷山中において、同所を登山中の会社員らによって、男性の腐乱死体が発見された。死体発見現場は、六甲山記念碑台交差点から東方約六キロメートルの県道明石・神戸・宝塚線瑞宝寺谷付近路上から後鉢巻山の西側斜面を瑞宝寺谷に向かって西方に約一五〇メートル下った谷底の部分で、付近には岸石及び砂礫が堆積しており、下流にあたる北方へは、一〇度ないし三〇度の傾斜が続いている地点である。

(二) 発見当時の死体の状況

(1) 死体は、右現場の砂礫上に、南側の砂防堰堤にほぼ平行して、頭部を西側に、下肢部を東側にして俯せに横たわり、発見当時、既に高度に腐敗し部分的には白骨化していた。

(2) 死体は、パジャマ上下及び腹巻を着用していたが、下着は着用しておらず、また、パジャマ上衣のボタンは四個であるが、最上部の一個ははずされ、中間の二個のボタンは引きちぎれた状態で紛失しており、最下部の一個だけがボタン穴に掛かっており、パジャマズボンは、腰部からずり落ちた状態であった。なお、右パジャマ上衣には、次の各損傷が認められた。

① 基点(パジャマ上衣の後襟付けの中央点を、以下、「基点」とする。)から二〇センチメートル下方で、正中線(基点を通り、パジャマ上衣下端部と垂直に交わる直線を、以下、「正中線」とする。)から七・五センチメートル右(以下、パジャマ背面を基準とする。)を内側端とする、正中線に垂直な長さ三・二センチメートルの真直ぐな損傷

② 基点から三一・五センチメートル下方で、正中線から七センチメートル右を内側上端とする長さ三・一センチメートルと〇・六センチメートルのかぎ形の損傷

③ 基点から二七センチメートル下方で、正中線から七センチメートル左を内側上端とする長さ三・〇センチメートルと〇・五センチメートルのかぎ形の損傷

④ 前記③の内側端の直下の「く」の字形の小さな損傷

⑤ 基点から三四・五センチメートル下方で、正中線を左端としてこれに垂直な長さ三・四センチメートルの真直ぐな損傷

⑥ 基点から三九・五センチメートル下方で、正中線から二・五センチメートル右を内側端とする長さ〇・六センチメートルと〇・五センチメートルと〇・六センチメートルの「コ」の字形の損傷

(3) 死体には、その一部に幅五センチメートルのガムテープが巻き付けられていた。その状況は、次のとおりである。

① 頭部及び顔面。上下幅約二〇センチメートルにわたり、幾重にもガムテープが巻かれており、頭部では頭頂部、顔面では鼻腔部の周辺がそれぞれ露出しているに過ぎない。

② 手首。死体の上肢は、後手に縛られた状態で、腰背部に接しており、その両手首にガムテープが巻かれている。

③ 足首。足首付近には、ガムテープ二巻きが存するが、うち一巻きは、両足首に密着して巻かれている。もう一巻きは、足首付近に引掛った状態であり、その内径が長径二四センチメートル、短径一三・五センチメートルに及ぶところからみて、当初は引掛っていた位置よりも上方に巻かれていたものと考えられる。

(4) 前記ガムテープを除去した死体の両手首及び両足首は、いずれも「創立百周年記念志染小学校」と染め抜かれた日本手拭で緊縛されていた。両手首を縛った手拭は真結びでその内径は四四センチメートルであり、両足首を縛った手拭は縦結びでその内径は三四センチメートルである。

(5) 死体の損傷

右死体には、腐敗による消失を除き、次の各損傷が認められる。

① 下顎歯の欠如。下顎歯の切歯四本が欠如している。

② 右足端の損傷。右足踵骨の下部及び立方骨の外側半分がほぼ同一平面において、水平に損壊され、第四、第五中足骨及び全部の跡骨が欠如し、第二、第三中足骨の各一部分が損壊されている。

③ 左第一二肋骨背面の損傷。左第一二肋骨の椎肋関節面から、二・五センチメートルの位置の肋骨下縁に長さ〇・五センチメートルの浅い切損様の損傷が認められる。そして、右肋骨損傷の前内側下部に相当する位置の後腹膜に水平に長さ約三センチメートルの損傷が認められる。

④ 第一腰椎の右椎弓板背面の損傷。第一腰椎の右椎弓板背面に長さ約一センチメートルの前下方に向かう浅い切損が認められる。

⑤ 左腰背下部の損傷。左腰背下部に水平に創縁のかなり鋭い長さ四センチメートルの損傷が認められ、創底は前下方に向かうが厚さは二ないし三センチメートルで皮下に止まっている。

⑥ 肝臓下部の後腹膜損傷。肝臓下部の後腹膜に水平に長さ約六センチメートルの穿孔が認められる。しかし、これに接する肝臓には、明瞭な切損を認めない。

⑦ 心膜の損傷。心膜の左背面から側面にかけ、ほぼ水平に長さ六センチメートルのやや鋭利な損傷が認められ、これに一致して、心臓の左室壁背面から側面にかけ、長さ四センチメートルの損傷が認められる。

(6) 死体の胃内容物

死体の胃は、形態を残し、その内容は、かなり消化された米飯、青い菜葉(スグキ、ノザワ菜に類する漬物と推定される)、人参及びキャベツ片等を含む淡赤褐色泥状物であった。なお、これらは、その消化の程度からみて、摂取後数時間と推定される。

2 死体の身許

右死体の背部に一部残っていた刺青及び死体の着用していた前記腹巻きの中から発見された所持品によって、右死体は暴力団松田組系村田組内大日本正義団幹部鳴海清(当時二六年)であることが、遅くとも同年九月二〇日には判明した。

3 鳴海の死因

発見された時の死体の状況に徴すれば、前記鳴海の死亡が自然死あるいは自殺によるものではなく、他殺であることは明らかである。そこで、次にその死因について考えるに、前記「死体の状況」(2)及び(5)記載のとおり、前記パジャマ上衣の背面には、鋭利な刃物によって生じたと考えるのが自然な損傷が存すること(この損傷のうちには、重なり合っていたため同時に生じたものが存する可能性もある)、右パジャマの損傷にほぼ対応して、左第一二肋骨背面及び第一腰椎の右椎弓背面下縁に切損が存し、更に心膜及び心室にも鋭利な損傷が存することの各事実が認められ、これらを総合すれば、同人の死因は、同人の胸背部をナイフ様のもので数回突き刺したことによる失血死であると推認し得る。

二  捜査段階における自白の任意性及び信用性

前述のとおり、鳴海の死は他殺によるものであることは明らかであるが、同人は、判示第一記載のとおり昭和五三年七月中旬以降、忠成会関係者らによって匿われていたため、その間の同人の動静を知る者は組織暴力団構成員らごく一部の者に限定されており、そのためもあって、鳴海の殺害犯人の認定に資するための客観的証拠ともいうべきいわゆる第三者の供述は存在しないうえ、本件においては、右殺害の犯罪とその犯人とを結び付けるべき物的証拠も乏しく、勢い、右犯罪と被告人らとを結び付ける証拠として、被告人らの自白が極めて重要な意味を持つこととなるのであるが、それだけに、その自白の任意性及び信用性については特に慎重な検討が必要となる。

そこで当当裁判所は、この点に十分留意したうえ、次に被告人らの自白の任意性及び信用性の有無につき、検討を加えることとする。

1 被告人らの逮捕と自白に至るまでの経緯及び自白状況

本件公判調書中の証人尾迫安男、同岸本典久及び同松田為七の各供述部分、同尾迫安男、同坂井靖及び同高田謙の当公判廷における各供述(以下、これらを「捜査官証言」という)、被告人三名の検察官及び司法警察員に対する各供述調書並びに本件身柄関係記録によれば、以下の事実が認められる。

(一) 被告人三名は、いずれも昭和五三年一〇月七日、兵庫県警察兵庫署に出頭し、鳴海を蔵匿した旨自供したため、翌八日、いずれも鳴海についての犯人蔵匿の被疑事実で逮捕され、引き続き取調を受けたが、右事実についての自白を翻すようなことはなく、それぞれ、詳細な供述調書が作成され、同月二八日、いずれも犯人蔵匿罪で起訴された。

(二) 捜査官は、右犯人蔵匿事件の捜査と併行して鳴海殺害事件の捜査を行っていたのであるが、被告人ら三名に対してもこれに関して事情聴取を行っており、被告人らが犯人蔵匿罪で起訴された後も、引き続きその点に関する追及を続けていたのであるが、被告人秋丸は、犯人蔵匿による起訴前である同月二四、五日ころから「頭なんかも言ってまんのか」と鳴海の行方につき知識を有していることをほのめかす言動をしていたが、同月二七日に至り、同被告人が被告人衣笠及び他一名とともに、同年八月三一日に鳴海を手拭及びガムテープで緊縛した旨の自白を開始し、同日、逮捕監禁に関する最初の調書が作成されたが、他の一人の共犯者については、「不確定なことは書かないでくれ」との同人の希望により、右調書では実行行為者は被告人秋丸及び同衣笠の両名だけとなった。その後捜査官が、被告人秋丸に対し、更に「隠せるものではない」と説得を続けたところ、翌二八日には、「自分がもう一人いるといわんかったら、服役から帰って間もない田中の兄貴を巻込むことはなかった」と悩みながらも、被告人田中が逮捕監禁に関与していた事実を認め、同年九月一日の夜、被告人三名が、小南方において鳴海を日本手拭及びガムテープで緊縛したうえ、被告人衣笠の運転してきた自動車の後部トランク内に運び入れたことを自白し、同日その旨の調書が作成された。

他方、捜査官は、同月二七日、被告人秋丸が前記のとおり概略を自白した後は、被告人田中に対しその旨を告げたうえ、同被告人を追及したところ、同被告人は、同日、「すみません。反省しています」、「嫁さんがかわいそうや」と言いながら、同年九月一日の夜、被告人衣笠とともに小南方に赴き、同所にいた被告人秋丸とともに三名で鳴海を日本手拭及びガムテープで緊縛し、被告人衣笠の運転してきた自動車の後部トランクに運び込んだうえ、被告人衣笠とともに、鳴海を六甲山中まで運んだ旨自白するに至ったが、同人において「調書とるのは待ってくれ」と要請したため、捜査官において当日は調書を作成せず、同年一一月五日に最初の供述調書が作成された。

(三) その後、被告人田中及び同秋丸は、前記各自白を維持し、同年一一月一三日、同衣笠は逮捕監禁、殺人の、同田中は逮捕監禁、殺人幇助の、同秋丸は殺人の各容疑でそれぞれ再逮捕されたが、同田中及び同秋丸は、それまでの各自白を翻すことなく、同月一五日の勾留質問の際にも事実関係を認め、その後もそれぞれ詳細な自白調書が作成されたが、その大要は、後述「自白の概要」のとおりである。なお、被告人衣笠は、逮捕監禁及び殺人の事実に関しては、終始否認を続けた。

(四) そして、同年一二月四日、被告人衣笠及び同田中は、いずれも鳴海に対する殺人罪で、同秋丸は、同人に対する逮捕監禁罪でそれぞれ起訴された。

2 自白が違法収集証拠である旨の主張について

弁護人は、被告人三名が鳴海に対する犯人蔵匿罪で起訴された一〇月二八日以降に作成された被告人田中、同秋丸の検察官及び司法警察員に対する各供述調書(以下、「被告人両名の自白調書」ともいう。)につき、それらは違法な取調の結果作成されたものであるから、いわゆる違法収集証拠として、その証拠能力を否定さるべきである旨主張し、その理由として、右自白調書は、犯人蔵匿についての起訴後の勾留を利用し、これとは別個の事実である殺人に関する被疑事実につき、いずれも令状の発付を得ないまま取調べた結果作成されたもの、あるいは、起訴にかかる犯人蔵匿の事実につき起訴後に取調べた結果作成されたものであっていずれの観点からみても違法であるから証拠能力を欠き、さらに右両名が殺人に関する事実につき再逮捕された一一月三日以降に作成された各供述調書も右の違法に収集された証拠に基づいて作成されたいわゆる「毒樹の果実」として証拠能力を否定されるべきである旨主張するので、以下、この点について検討を加えることとする。

(一) 起訴後の取調であるとの点について

右自白調書中昭和五三年一〇月二八日以降に作成されたものは、いずれも犯人蔵匿による起訴後に行なわれた取調の結果作成されたものであるところ、これらの調書中には被疑事件名として「犯人蔵匿」あるいは「犯人蔵匿等」との記載がなされているものも存し、一見それらは犯人蔵匿の起訴後更に当該起訴にかかる事実について取調べた結果作成されたような外観を呈している。しかし、捜査官証言及び調書の内容自体からみて、これらの調書は、右犯人蔵匿とは別個の事実である鳴海殺害に関する事実についての取調の結果作成されたものであり、たまたまその内容中に鳴海をいつまで匿ったかという犯人蔵匿に関する部分も含まれているということが明らかであるから、右のような被疑事件名の表示方法が相当であるか否かの問題は別として、起訴後に被告人を当該被告事件について取調べる場合に論じられる問題点は、本件においては存在しないものと認められる。

(二) 別件勾留を利用しての取調であるとの点について

(1) 《証拠省略》によれば、本件自白調書中、同年一〇月二八日から同年一一月一三日までの間に作成された被告人田中の検察官調書二通、司法警察員調書二通及び同秋丸の検察官調書三通、司法警察員調書四通は、いずれも鳴海に対する犯人蔵匿罪で起訴された後、これとは別個の犯罪事実である鳴海殺害に関する犯罪事実につき、それぞれ令状の発付を得ないままなされた取調の結果作成されたものであることが認められる。

(2) かかる起訴後の別件被疑事実に関する取調については、被疑者が被告事件について勾留中であっても、当該被疑事実につき逮捕又は勾留されている場合でなければ刑事訴訟法一九八条一項但書の適用がないことが明らかであるが、だからといって別件被疑事実の取調が常に許されないわけではなく、それが任意の取調としてなされる限りにおいて適法であると解される。ところで、捜査官証言によれば、被告人田中及び同秋丸を取調べた各捜査官のほとんどは、取調当時、勾留中の当該被疑事実の取調と起訴後の別件被疑事実の取調との右のような法律的差異を明確に意識することなく、犯人蔵匿の起訴後の勾留の機会を利用し、両被告人に対し、鳴海殺害に関する事実の取調をなしたことが認められ、他方、被告人田中及び同秋丸の各公判供述によれば、右両名も鳴海殺害に関するこれらの取調の際、犯人蔵匿で取調を受けた場合と特に異なる意識を持つことなく、取調に応じたことが窺われ、この点捜査の方法として問題の余地のあることは否定できない。

(3) ただ、右の点から、直ちに、被告人田中、同秋丸の取調が任意のものでなかったとするのは相当でないと思われる。任意の取調でないとされるのは、相手方に法律的義務があることを前提として、その者に出頭ないし取調を受ける意思がないのにその意思に反して取調をなした場合なのであり、諸般の事情からみてその意思に反する取調とは認められない場合には、これを任意の取調としてよいのである。その意味では、勾留中の被疑者を当該被疑事実について取調べる場合であっても、なお任意の取調とみてよいときがあると解される。これを本件で問題となっている犯人蔵匿の起訴後における鳴海殺害に関する事実の取調についてみるに、捜査官証言及び被告人田中、同秋丸の各公判供述に徴しても、右取調の機会に捜査官らにおいて、被告人田中及び同秋丸の出頭ないし取調拒否の意思を無視して敢えて取調を行なった事実は認められず、むしろ同被告人らは素直に取調に応じていたことが窺われ、反面、捜査官らは、本件鳴海殺害事件が、犯人との結び付きに関する物証に乏しく、被告人らの供述がこの点に関する証拠として重要な意味を持つこととなることから、被告人らから任意の供述を得るべく、配慮していた事情も認められ、このことは前述した被告人秋丸、同田中の自白調書作成の経過からも窺われるところであり、結局、これらの諸事情を考慮すれば、被告人田中及び同秋丸の取調は、なお任意になされたものと認めることができる。

(4) なお、被告人秋丸については、鳴海殺害に関するものとして右のほかに、犯人蔵匿の起訴前である同年一〇月二七日付の司法警察員調書も存するところ、このように勾留期間内に勾留の基礎となっていない別個の被疑事実について取調をなすことも任意の取調としてのみ許容されると解すべきであるが、本件においては前述した諸点から、右自白調書も任意の取調の結果作成されたものと認めることができる。

(三) 以上述べたとおり、被告人両名の自白調書については、それが違法収集証拠ないしその毒樹の果実であることを理由としてその証拠能力を否定すべきものでないというべきであるから、弁護人の右主張は失当である。

3 自白に任意性がないとの主張について

弁護人は、また、被告人田中及び同秋丸の公判廷における供述を援用し、同人らの自白調書は、捜査官による強要、利益誘導等に基づき作成されたもので任意性がないと主張するので、以下、この点について検討を加えることとする。

(一) 自白調書の作成状況に関する被告人らの弁解

被告人田中及び同秋丸は、本件自白調書の作成された経緯につき、公判廷において、それぞれ大要次のとおり弁解する。

(1) 被告人秋丸の弁解

① 兵庫署に出頭後二日位してからは、蔵匿の取調は行なわれず、もっぱら殺人の取調ばかりを受け、この事実を否認すると、捜査官から「お前やったやろ」と追及を受けたり、「寝る前に丁度ええやろ」と言って、就寝前に鳴海の解剖の写真を見せられたりした。そして、なおも事実を否認すると、「小南の家だけでも作れ。小南方で鳴海を括ったということまで認めよ。認めんかったら殺人や」、「二つまで認めたら、殺人にせん。逮捕監禁で済む」などと、脅迫や利益誘導を受けたため、このまま否認を続ければ、殺人犯人に仕立てられると思い、やむなく、虚偽の自白を行なった。

② 自白調書の内容は、後述のとおりであるが、これは、捜査官の方で画用紙のようなものに小南の家、自動車及び六甲山をそれぞれ描いたものを準備し、「そこに誰々が来たという名前だけ言ってくれたらよい。それだけで殺人にならんやないか」と申し向けられたためこれに沿って虚偽の事実を設定して供述をなし、細かな事実については、同人の思いつきで適当に付加した。

③ 共犯者としては、被告人衣笠及び同田中の名前が出ているが、それは、右自白をする際に、捜査官から野村、衣笠、因幡、村岡、田中などの忠成会関係者の名前を示され、「この中の誰かが来とる」、「誰でもいいから名前を出せ」と追及されたからであり、衣笠及び田中の名前を出したのは、同人らなら、自分がひとり虚偽の事実を供述しても、かかる事実を認めるはずがなく、結局、全員を起訴できなくなると考えたからである。

(2) 被告人田中の弁解

① 犯人蔵匿で逮捕されて一週間ほどしてからは、鳴海を誰が殺したのかという取調を受け、犯人蔵匿で起訴された一〇月二八日の少し前からは、「お前がやろやないか言わんで、誰がやるんや」という追及を受ける一方、犯人蔵匿で逮捕後一週間ほどしてからは、毎日妻のB子に会わせてもらい、その都度、捜査官からコーヒーあるいは食事の提供を受けたりしていた。

② 自分は、組の抗争事件にからむ殺人事件で一〇年間服役したにもかかわらず、出所後それにふさわしい待遇を受けていないことにかねがね不満を抱き、とりわけ、出所時の忠成会幹事長であった被告人衣笠に対しては、悪感情を持っていたところ、取調中捜査官が、「お前小若衆みたいな扱いを受けて」等と、その感情を助長するように仕向けたので、取調当時、被告人衣笠に対し、憎悪の感情を持つに至った。

③ 一〇月二八日になって、被告人秋丸が自供し、かつ、被告人衣笠及び同田中の名前も出ていることを捜査官から聞かされたため、これで無罪にはならないと観念したが、捜査官が、「お前さん殺人はしていない。衣笠を助けただけやから幇助や」、「幇助やから五、六年というところや」、「警察の顔を立てて秋丸の後を作ってくれ」と申し向け、暗に鳴海殺害の事実を認めれば、殺人幇助でしか起訴しないということをほのめかしたため、遂に、一一月三日ころ、殺人幇助の責任を自ら被ってでも被告人衣笠が鳴海を殺害した事実を自白して、同衣笠に対するこれまでの恨みを晴らしてやろうと決意し、被告人秋丸の供述の後を受けて、鳴海を六甲山中まで搬送したことにつき、捜査官と相談して作出した虚偽の事実を自白することにした。調書の内容は、できるだけ被告人秋丸のそれに合わせたが、細部については、意識して違えるようにした。

(二) 自白の任意性の存在

(1) まず、本件の取調に当たって、被告人田中及び同秋丸に対し、捜査官により強制や拷問が加えられたことを窺わせる事情は存在しないところである。また、捜査官証言によれば、本件について右被告人らの取調に当てられた時間は、警察官による取調についていえば、取調開始時刻は両名とも午前九時三〇分ないし一〇時であり、取調終了時刻は、被告人秋丸においては、平均して午後七時ないし八時で、最も遅くなったのは一一月末ころ午後一二時前ころまでかかったことがあるというものであり、被告人田中においては、遅くまでかかった場合の平均が午後八時三〇分ないし九時で、最も遅くなったのは犯人蔵匿で逮捕した日(一〇月八日)と一〇月二七日の二回でいずれも午後一二時ころまでかかったというものである。なお、検察官の取調は、被告人秋丸については午後七時までに終わっており、同田中については必ずしも明らかでないけれども、警察官の取調に比し殊更深更にまで及んだ形跡は見当らない。他方、被告人田中の取調については、同被告人の気分が悪い場合には二時間程で打切ったこともあるし、また、夜遅くまでかかった場合には翌朝の取調開始を遅くするなどの配慮がなされたことも認められる。もっとも、被告人らの公判供述では、捜査官証言と取調終了時刻につき概ね一時間程遅くなるなどの差異が認められるが、そのいずれであるにしても、取調時間の点が被告人らの自白の任意性に影響を及ぼしたとは認められない。

(2) 被告人田中及び同秋丸が鳴海殺害に関する事実について自白を開始するに至った経緯は、前記「被告人らの逮捕と自白に至るまでの経緯及び自白状況」において認定したとおりてあり、いずれも捜査官の説得により自白を開始しているのであるが、その際、被告人秋丸において被告人田中の氏名を供述することを躊躇したり、被告人田中において家族への心配の念を吐露したりしながらも、素直な態度で供述しているものと認められるのであり、また、捜査官においても、前述のように、本件鳴海殺害事件が犯人との結び付きについて物的証拠等の客観的証拠に乏しく、犯人の割り出しについては逃走中の鳴海の動静を知るごく少数の関係人の供述に頼らざるを得ない事案であることから、被告人らの捜査段階における供述が重要な意味を持つことを十分意識して、その任意性に疑いを持たれるような取調方法はとらないよう留意のうえ、あくまでも被告人らの自発的な供述により自白を得るという方針をもって臨んでおり、事実、被告人田中については、同年一〇月二七日に初めて鳴海殺害に関する犯行の概要を供述し始めたにもかかわらず、同人の希望を容れて、同年一一月五日まで調書を作成していないのであり、また、被告人秋丸についても、同年一〇月二七日付供述調書においては、「不確定なことは書かないでくれ」との同人の希望により、同人及び被告人衣笠以外の共犯者の存在については記載されないこととなったことが認められるのである。

(3) もっとも、捜査官証言によれば、被告人田中の取調に当たった捜査官において、鳴海殺害に関する取調の過程で、同人に対しコーヒーやソーダ水を飲ませたりしたこと、鳴海殺害に関する起訴後、検察庁に赴いた同人に対し、トンカツ定食を食べさせていること、また、前記殺人の取調中、同人に対し、「幇助なら懲役六年くらいだな」と告げたことがそれぞれ認められるのであり、捜査官として若干軽率な点があったことは否定できないところである。しかし、他方、捜査官証言によれば、コーヒーやソーダ水は被告人田中の注文により提供したもので、その代金は二、三回捜査官が負担したほかは同被告人から預っている金の中から差引いているのであり、差引くのを忘れた分が若干あったにせよこれをもって利益誘導と認めることはできず、またトンカツ定食を食べさせたのは前記のとおり殺人罪についての起訴後であって既になされていた自白の任意性を左右すべき事柄ではなく、更に「懲役六年くらい」との捜査官の発言も、捜査官証言によれば、それがなされた経緯としては、自白をした当時の被告人田中において、自己の量刑を心配して「殺人幇助なら何年位だろうか」と尋ねたのに対し、捜査官において「はっきり分らんが六年くらいかなあ」という自己の経験に照らしての一応の回答をしたに過ぎないことが認められるから、これをもって同人に対する利益誘導があったものとすることはできないというべきである。なお、被告人田中の前記弁解のうち犯人蔵匿で逮捕後一週間ほどしてからは毎日妻に合わせてもらったとの点については、これに符合する証人B子の供述も存するが、同被告人が公判廷で供述をあいまいにしている部分もあり、また、捜査官の証言並びに同被告人が昭和五三年一〇月九日から同月二八日まで及び同年一一月一五日から同年一二月四日までの間それぞれ接見禁止の裁判を受けている事実に照らし、にわかに信用し難いところである。

(4) 被告人秋丸の取調状況ないし自白をした経緯に関する公判供述を検討すると、自ら虚偽の事実を考え出して供述したという部分のほか、既に捜査官が作り上げていた虚構の筋書に沿い、又は捜査官とともに虚構の事実を作出したうえ、それを自白内容としたという部分が多く存在するのであるが、被告人秋丸の自白があるまで、捜査官としては断片的な捜査資料を持ち合わせているのみで犯行の具体的経過ないしその態様についてはいわば白紙に近い状態にあったと認められるのであって、このような状態において捜査官が虚構の筋書を設定し強要又は利益誘導によって被告人秋丸にこれに合致する供述を迫るというようなことはにわかに考え難いところである。また、同被告人が共犯者として被告人衣笠及び同田中の名前を出すに至った理由も不自然で容易に納得できないというほかない。他方、被告人田中の公判供述についても、捜査官の利益誘導等によって虚偽の事実を自白することにし、できるだけ被告人秋丸の自白に合わせるようにしたと述べる一方、殊更同被告人の自白と違うようにしたと述べるなどそれ自体矛盾を含むものであると言わざるを得ない。

(5) 被告人両名の自白内容には、後述するように、供述内容の変遷あるいは両被告人間における供述の食い違いが認められるが、これらはいずれも前記のような捜査方針から、被告人らの供述するままを調書に記載した結果であると考えられ、このことは、捜査官において、両被告人の供述を合致させるために無理な誘導がなされたり、被告人両名が捜査官に迎合したり、捜査官の側で虚構の事実を設定したりしたことを否定する重要な裏付となると考えられる。なお、被告人田中は、前述のとおり、公判廷において、右の各食い違いは、重要でない部分につき意図的に行ったものである旨弁解するが、意図的に行ったということ自体が前述したように矛盾しているのみならず、後で触れるとおり、被告人両名の供述の食い違いは必ずしも重要でない部分に限定されてはおらず、右弁解は信用できない。

(6) 以上の諸事実に徴すれば、被告人両名の各自白は、いずれも任意になされたものと認められるから、弁護人の主張は採用することができない。

4 自白の信用性についての判断

既に述べたように、本件における被告人らの行動については、小南方における部分については被告人田中、同秋丸の、それ以降の部分については被告人田中の各自白が存するのであるが、ここでは、両名の自白の存する小南方を出発するまでの部分とそれ以降の部分とに分けて、それぞれ自白の信用性について検討することとする。

(一) 小南方を出発するまでの部分

(1) 自白の概要

① 被告人秋丸の自由

昭和五三年九月一日当時、小南方で鳴海を匿っていたが、同日午後一時ころ、被告人衣笠から、「四時ころそちらへ行く」旨連絡があり、同日午後四時ころ、同人が自動車で小南方を訪れた。同人は、被告人秋丸に対し、「清ちゃんは最近頭が混乱しとるので、当分の間座敷牢に入れて頭を冷やすようにするんや」、「道順を清ちゃんに覚えられないように眠らせてから連れ出すから、この睡眠薬を飲ましてくれ」と言って、背広のポケットから黄色の紙包一個を取り出して同人に交付し、「うまく飲ますことができたかどうか、九時ころに聞く」と言って帰って行った。自分は、夕食時に鳴海の味噌汁の中に前記睡眠薬を入れたが、同人が飲まなかったために失敗した。

同日午後九時ころ、二階で鳴海とテレビを見ていると、衣笠からの電話があったので、失敗した旨告げると、同人は、「仕方ない。お前と二人で括って出そうか。どうや二人でいけるか」と尋ねたので、もう一人いた方がよいと提案したところ、衣笠もこれを了解した。

同日午後一一時過ぎころ、衣笠及び被告人田中が小南方に自動車に乗って訪れたので、二人を一階応接間に案内した。同所で衣笠が、自分に対し、「何か括るものあるか」と尋ねたので、台所の水屋の中の新品の手拭を思い出し、その中から二本を取り出し、のし紙を剥ぎ取って田中に渡した。衣笠は、「鳴海をここに呼んで来てお前は鳴海が座ったら、後から襲え」と命令し、田中にも何か命令していた。隣の六畳間の方が縛り易いと思ったので、衣笠に、「六畳の方に連れて来ます」と言って二階に行き、既に寝ていた鳴海を起こして一階六畳間へ連れて来た。

鳴海は、衣笠に向かって正座したので、自分は、衣笠の前に灰皿を置いてから鳴海の後方に近付き、いきなり両手で同人の両腕を外側から抱え込むようにしたうえ同人の両脇に腕を差し入れる状態で同人の両腕を締め付けたので、同人はバランスを失なって横向きに倒れた。同人は、「頭、これなんでんのん」と言ったが、さしたる抵抗はせず、その後、田中が同人の両手両足を前記日本手拭で縛り、衣笠がどこからか持って来た幅五センチメートル位のガムテープで同人の頭や顔を巻き付け、更に自分にも「あとを巻け」と命令したので、やむなく鳴海の口付近を二、三回ガムテープで巻いた。

その場の光景があまりにもむごいので、「荷物を取って来る」と口実をつけて二階に行き、鳴海の服等をその場にあったビニールの覆いのついた紙袋に入れ、更に同人の拳銃を探し出して、これらを衣笠に手渡したが、その際、同人の左脇腹の辺にナイフがさしてあるのを目撃した。その時鳴海は、頭、顔及び両手両足をガムテープで巻かれ、床の上に転がっていた。

こうして一段落ついたので、台所の冷蔵庫から麦茶を取り出して被告人三人で飲み、その後、衣笠の命令で、田中が鳴海の足、自分が頭を持って、田中が先頭となって、同人を屋外に運び出して、衣笠の車のトランク内へ運び入れ、頭が右側になるように鳴海を横向けに寝かせ、足を少し曲げて押し込んだ。その後、同じく衣笠の命令で、布と毛布を小南方から持ち出して右トランク内に詰めた。

その前後、三木方面から来る車のライトが見えたので、衣笠に注意すると、同人はトランクを閉め、そのまま車の付近で佇立していたところ、その車は小南方前を通過して二、三〇メートル離れた辺りで停車し、一人の男を降ろしてそのまま走り去った。その男は、小南方東側の空地を横切って小南方の裏の中園アパートの二階へ上って行った。その後衣笠が運転席に乗り込み、田中は、自分に対して「疲れたやろ。今日はゆっくり休めよ」とねぎらいの言葉を掛けてから車の助手席に乗り込み、車はその後三木方面へ走り去ったが、その時の時刻は、同月二日午前零時過ぎころと思う。それから、家に入り、一階応接間でブランデーを飲もうとしていたところ、「ピーポー、ピーポー」というサイレンが聞えたので、鳴海を連れ出した事実が発覚したのかと思ったが、関係がないようだったので安心した。

② 被告人田中の自白

同年九月一日午後一一時ころ、自宅で妻のA子とテレビを見ていたところ、被告人衣笠から電話があり、忠成会事務所に来るように指示されたので、直ちに同所に赴いたところ、衣笠は車を事務所前に停めて待っていた。車に乗り込むと衣笠は直ちに発進させ、西神戸有料道路及び県道神戸三木線を通って三木方面に向かったが、途中、衣笠は小南方に行くと言っただけで、その目的については何も話してくれなかった。車は、同日午後一二時前に前記小南方に到着したが、その途中、広野のゴルフ場の手前で道路工事をしており、片方通行となっていた。

小南方では、被告人秋丸が出迎え、一階応接間へ入った。右応接間において、衣笠が、秋丸に、「鳴海を括って連れ出すから、何か括る物の用意をしとけ」と命令していたので、初めて鳴海が小南方に匿われていたこと及びこれから同人を縛って連れ出すということが分ったが、秋丸は、別に驚いた様子もなく、すぐに台所から日本手拭二本を取って来て、自分に渡して寄こした。そして、衣笠は、秋丸及び自分に対し、それぞれ「わしが合図をするから、鳴海の後から腕をとって動けんようにしろ」、「秋丸が腕をとって動けんようにしてから括れ」と命令し、更に、秋丸に対し、鳴海を呼んで来るよう指示したところ、秋丸は、隣の部屋がよいと言いながら二階に上って行った。

そこで、衣笠と共に、隣の六畳間に移って待っていると、間もなく鳴海が部屋へ入って来て衣笠と向い合わせに正座し、二言、三言話をしたが、その間、秋丸は灰皿を同衣笠の前に出して、すぐに鳴海の斜め後に佇立したので、衣笠があごをしゃくって合図をした。

これに呼応して秋丸が、いきなり鳴海の背後から同人に飛びかかり、立ったまま同人を抱え込むように押えつけたので、同人は両足を前に投げ出す格好になったが、その間同人は、「頭何でんの」と衣笠に食って掛った程度で、目立った抵抗はなかった。その後、自分は、衣笠から命令されて、同人の足首及び手首をこの順序で、日本手拭で縛り、これで鳴海は、やや横向きとなったが、衣笠は、更に鳴海の頭、顔、両手及び両足等をガムテープで幾重にも巻き付け、秋丸もこれを手伝い、鳴海は遂に体を「く」の字に曲げて、六畳間のじゅうたんの上に転がされてしまった。

その後、秋丸が二階に上って鳴海の衣類等を紙袋に入れ、これを青いビニール袋の中に入れて持って降りて来た。秋丸が降りて来た所で、衣笠は、秋丸及び自分に鳴海を車のトランク内に運ぶよう指示し、自分が同人の足、秋丸が頭をそれぞれ持って車の前まで同人を運び、衣笠があけたトランク内に、鳴海の頭が右側に来るようにして寝かせた。その後、秋丸が三木方面から来る自動車に気付き、衣笠に注意したので、同人はトランクを閉め、被告人三人は右自動車の傍に佇立して、走って来た自動車の動向を見守っていたところ、同車は、小南方前を通り過ぎて少し離れた所で、一人の男を降ろして走り去った。車を降りた男は、小南方の東側の空地を横切って、小南方裏手のアパートの方へ歩いていった。その後、衣笠は、秋丸に対し、布団か毛布を持って来いと命令し、同人は小南方に戻って布団と毛布を持って来てトランク内に詰めると、衣笠は、トランクの蓋を閉め、車の運転席に乗り込んだ。自分は、秋丸から前記鳴海の荷物を受け取って、車の助手席に乗り込んだが、その際、秋丸に対してねぎらいの言葉を掛けてやった。衣笠は、まもなく自動車を発進させ、三木方面へ向った。

被告人両名の各自白は以上のとおりである。

(2) ところで、被告人両名の自白には供述の変遷、相互間の食い違い、不自然な点などその信用性に疑問を抱かせる点も見受けられる。例えば、

① 被告人衣笠から小南方の同秋丸に電話があった日及び時刻について、被告人秋丸の一〇月二七日付司法警察員調書と翌二八日付司法警察員調書では、八月三一日ころの午後一〇時ころから九月一日の午後一〇時三〇分ころへと供述の変遷が見られるし、以後、日については一貫して九月一日となっているものの、時刻については、二階で鳴海と午後一〇時からのテレビ番組「必殺からくり人・富嶽百景殺し旅」を見ていた途中の午後一〇時三〇分ころ(一一月一一日付検察官調書)、応接間で寝ころんでいた午後九時ころ(同月一三日付司法警察員調書)、鳴海の部屋に上って行き午後九時からのテレビ番組「消えた巨人軍」を一緒に見ていた時(同月一六日付検察官調書)と供述が変遷していること、

② 鳴海を縛った日本手拭につき、被告人秋丸は、「台所に掛けてあった日本手拭二本くらいをとって同衣笠に渡した」(一〇月二七日付司法警察員調書)、「台所にあった新品の日本手拭二本を取り出して同田中に渡したが、田中は何を思ったのか、台所に掛っていた使い古しの手拭を持って来た」(同月二八日付司法警察員調書)、「水屋に置いてあったのし紙付きの日本手拭二本を取り出して台所の冷蔵庫の上に置いた」(一一月二日付司法警察員調書)、「台所の方に行って日本手拭二本を取って来、その手拭を確か田中に渡したように記憶している」(同月一一日付検察官調書)、「台所の水屋の戸棚にあったのし紙付日本手拭二本を取り出してその場でのし紙を剥ぎ取りそれを台所のごみ箱に捨てた。この日本手拭を田中に渡したようにも思うし、冷蔵庫の上に置いたような気もしてこの点がはっきりしない」(同月二四日付司法警察員調書)とその供述に若干変遷が見られるのであり、一方、同田中は、一貫して、日本手拭は同秋丸が応接間に持って来て田中に手渡したが、新品であったか使い古しであったかは不明であると供述していること、

③ 鳴海を襲う際の衣笠からの指示内容につき、被告人秋丸は、「お前は清ちゃんが座ったら後から襲え」(一一月一一日付検察官調書)との指示を受けただけで、そのほか「鳴海を襲う合図などは決めてなかった」(同月二四日付司法警察員調書)と供述しているのに対し、同田中は、同衣笠において、同秋丸に対し、「わしが合図するから鳴海の後から腕をとって動けんようにせえ」、同田中に対し、「秋丸が腕をとって動けんようにしてから括れ」とそれぞれ指図をしたうえ、実際に鳴海を襲うに際し、あごをしゃくって合図をした旨供述し、この点につき、被告人間に供述の食い違いのあること、

④ 鳴海に襲いかかった時の状況につき、被告人秋丸は鳴海の後方から同人の両腕を締め付けた際、鳴海はバランスを失って秋丸もろとも横向きに倒れた旨供述するが、同田中は、同秋丸が後から襲いかかった時点では、鳴海は前のめりになって足を少し前に投げ出したような姿勢にはなったものの、この時点では同人はまだ横倒しになっておらず、その後、同田中において、同人の両手、両足を日本手拭で縛り、同衣笠において同人にガムテープを巻き付けた時点で、同人が横倒しになった旨供述し、この点、被告人間の供述に食い違いのあること、

⑤ 鳴海の両足首の括り方について、被告人田中は、当初、日本酒の一升瓶二本を落ちないようくくりつけるときのくくり方でくくりつけた旨供述していたが(一一月一五日付検察官、司法警察員調書)、その後この記憶は確かなものではないなどと供述を変えていること(同月二四日付司法警察員調書、同月二六日付検察官調書)、

⑥ 鳴海にガムテープを巻き付けた部位について、被告人秋丸は、当初は一貫して、頭部、顔面、両手及び両足と供述していたが、最終的な供述では、その他に膝辺りも巻かれていた旨供述するに至った(一二月一日付検察官調書)。他方、同田中も当初は、頭部、顔面、両手及び両足と供述していたが、その後、右のほかに肘の一寸上ぐらいのところが加わるとともに、はっきりしないとはするものの、「両足の太もものあたりと腹のあたりにもガムテープが巻きつけてあったようにも思います」との供述に変わり(一一月二四日付司法警察員調書)、更に、頭、顔、両手足のほか、「膝付近にもぐるぐる巻いていた記憶があります。その他にも上半身のどこかに巻いていた記憶もありますが、どこをどの程度巻いていたのかはっきり言えるまでの記憶は残っていません」(同月二六日付検察官調書)、頭、顔、両手足のほかに「まだ二か所位ガムテープを巻いていると思います」、「多分大腿部の辺りと後手に括っている両腕の上から腹あたりにかけてガムテープを巻いていたように思います」(同月二七日付司法警察員調書)、「この大腿部のガムテープも衣笠が巻いていたものです」(一二月二日付司法警察員調書)と供述を変遷させており、以上を通観すると、頭、顔、両手足以外の部分については、被告人両名の供述はいずれもあいまいであると言わざるを得ないこと、

⑦ 被告人秋丸が小南方二階から鳴海の荷物を持って降りてきた際、これらを納めた袋について、同秋丸は当初「紙袋」と供述していたが、その後、「ビニール覆付の買物手提袋」(一一月二四日付司法警察員調書)と供述を変え、他方、同田中は、一貫して「青色のビニール袋にいっぱいにふくらんだ紙袋を入れ」たものである旨供述し、この点で被告人間の供述には食い違いのあること、

⑧ 鳴海を括り終えた段階で、被告人秋丸は、同衣笠及び同田中の三名で麦茶を飲んだ旨供述するが、同田中はこの事実を否定しており、この点についても食い違いがあること、

⑨ 鳴海の死体は腹巻きを着用していたのであるが、被告人田中及び同秋丸は、いずれも同人が腹巻を着用していることには気付かなかった旨供述しており、この点、パジャマ姿の鳴海を襲って縛り上げ、あるいは八月二二日以降同人と生活を共にしてきた者の供述としてはやや不自然であると考えられること、

などであり、外にも、小南方一階応接間における被告人三名の着席位置、被告人三名の服装、ガムテープと日本手拭で鳴海を縛った順序等犯行の細部について供述の変遷あるいは被告人間の供述の食い違いがみられるのであって、以上の諸点は自白の信用性に一応の疑問を抱かせるものであり、少なくとも、自白中には一部信用できない箇所も含まれていることを物語るものと言わざるを得ない。

(3) しかし、それにもかかわらず、以下述べる諸事情を総合すれば、右自白は被告人又は捜査官において作出した虚偽架空のものとは到底認められず、その大綱においては信用すべきものと認められる。

① 被告人田中及び同秋丸が鳴海殺害に関する自白を開始するに至 た経緯は既に認定したとおりであって、被告人秋丸においては同田中の氏名を供述することを躊躇したり、また被告人田中においては家族への心配の念を吐露したりするなど心理的葛藤を見せた後、捜査官の説得により、いわば腹を決めて素直な態度で自白し、かつ最後までこれを翻すことはなく、勾留裁判官の面前においても自白しているのであり、自白がこのような経緯で得られ、かつ最後まで一貫して維持されているということは、自白の信用性の判断に当たって無視できないところである。

② 被告人両名の自白の内容は、既に摘記した概要からも窺えるとおり、いずれも詳細かつ具体的であるのみならず、前述したような食い違い点等は存するものの、被告人ら三名が小南方に揃った後、鳴海を階下六畳の間へ連れて来るまでの経緯、鳴海を右六畳の間で緊縛した際の各被告人の役割の分担、緊縛した鳴海を小南方前路上に駐車していた車のトランク内に押し込めた前後の状況等の大筋において一致し、かつ、鳴海が階下六畳の間に降りて来た際の同人及び被告人ら三名の位置関係、鳴海を車のトランク内に押し込める作業の間に三木方面から車が一台来て小南方前を少し通過したところで停車し一人の男が下車した際の二台の車の位置関係及び下車した男が歩いた経路等につき一致した図面を作成しているのであって、このような自白が前認定のように捜査官の特段の誘導に基づかずになされていることは、自白の信用性を高めるものと考えられる。

③ 被告人両名の自白、特に被告人秋丸のそれには、その内容自体からみて虚偽の自白とは到底思われない真実味が認められる箇所が見受けられる。たとえば、被告人秋丸は、鳴海を緊縛した後の同人の様子につき「清ちゃんは、『ウーン、ウーン』とうなり、身体をしゃくるようにしてもがいておりましたが、その時の清ちゃんの姿があまりにもむごたらしく見えましたので、その場から逃れたいと思い、頭に、『清ちゃんの荷物を取ってきますわ』というふうに言い、その場から逃れて二階に上りました」(一一月一日付、同月一一日付、同月二五日付各検察官調書)、鳴海を乗せた車が発進した直後のことにつき「神戸から三木に通ずる街道の付近で『ピーポー、ピーポー』というパトカーか救急車のサイレンの音が聞こえました。私は、そのサイレンの音を聞いて、頭や田中幹事長補佐が頭の運転する車のトランクに清ちゃんを詰め込み何処かに連れ去るについて、警察に発見されたのではないかと思い、一瞬ひやりとしました」(同月一六日付、同月二五日付各検察官調書。なお、その時刻頃、小南方近くの三木消防署から救急自動車が出動したことは、三木消防署長作成の捜査関係事項照会に対する回答書及び証人大西敏幸の公判供述によって明らかである)、事件後のことにつき「九月一七日のテレビで『六甲山でガムテープ巻きにされた男の死体をハイカーが発見した』というニュースを見て、男の死体は清ちゃんの死体ではないかと思い一瞬ドキンとしました。翌一八日の新聞記事が伝える死体の模様により右死体は清ちゃんの死体であると思いましたが、新聞記事には死後一、二か月を経過しているというようなことが載っておりましたので、清ちゃんが安ぼんの家から連れ出されてから死体が発見されるまで一六日程しか経っておりませんので、そのことから、ひょっとしたら清ちゃんの死体ではないかもしれないと考えました」(同月二〇日付検察官調書)などと供述していることが認められるのであるが、これらの各供述には虚偽の自白をしている者の想像ないし創作にかかる供述とは到底考えられない真実味が存することを否定できない。二番目に引用した供述に関し、弁護人は、「ピーポー、ピーポー」という音は救急車のサイレンであり、これをパトカーのサイレンと思うことはあり得ず、したがって、この供述は捜査官の無理な誘導によるものである旨主張するけれども、手拭とガムテープで緊縛した状態の鳴海を車のトランクへ積み込むという異常な行動を体験し、その車の走り去るのを見送った当時の被告人秋丸の心情を考えるならば、小南方とさ程離れていない三木消防署広野分署から出発した救急車の「ピーポー、ピーポー」というサイレンを間近に耳にした場合には、その音がパトカーの音か救急車の音かを判別するより前に、まず、自分達の犯行が発覚したのではないかとの驚愕と不安の念に駆られるのが、むしろ自然であると考えられるのであって、被告人秋丸の前記供述は、犯行に関与した者のその当時における自然な心情を吐露したものと認められるのであり、自白の信用性を高めるものと評価することができる。

④ 更に、被告人両名の自白を裏付け、小南方における被告人三名の犯行を推認させる次のような客観的状況が存在する。

証人萩原努及び同本岡昌幸の各公判供述によれば、昭和五三年九月二日午前零時過ぎころ、前日の夕方から釣りに出掛け、その帰途自動車で小南方前路上を通過した右萩原らは、小南方玄関前付近に三人位の男が立っていた情況を目撃し、しかもそのうちの一人は身体つきが被告人秋丸に似ていた事実が認められる。右萩原らはその日付について具体的な根拠を示しながら供述しており、また、同人らはいずれも被告人らと利害関係を有しない者であるから、右供述は十分信用できるものと認められる。もっとも、右両名の存在が捜査官に知れるところとなったのは被告人秋丸の供述によるものであるか否かという点については争いがあり、萩原が一〇月の中頃、同人の勤務先に警察官が訪れ、「九月一日の晩釣りに行かなかったか」と尋ねられたと供述しており、かつ右の日時は被告人秋丸が最初にこの点に関する供述をしたと認められる一〇月二九日よりも早いことからみて、萩原らの存在は、被告人秋丸の供述に先立ち捜査官による聞き込み等の結果判明するところとなった可能性もあると認められるが、この点は別として、萩原らが、まさに問題となっている、付近に人影も見当らない深夜の時刻に小南方玄関前付近に三人位の男が佇んでいるという特異な情景を目撃した事実は証拠上動かし難いところであって、この事実は、その旨を述べる被告人両名の自白を裏付けるとともに、後述の鳴海が小南方からいなくなった時期についての小南安正の供述と相俟って、被告人らによる本件犯行を強く推認させるものである。

小南安正の一一月二五日付検察官調書によれば、同人が九月二日午前二時ころ、外出先から小南方に戻ったとき、その前日の朝には同所で姿を見掛けていた鳴海がいなくなっていた事実が認められる。

この点について小南安正は公判において、鳴海がいなくなったのは八月末ころ、特に二八日ころという記憶であり、警察等での供述調書ではそれが九月一日となっているが、それは当時の記憶によるものではなく、警察でああではないかこうではないかと言われ早く済ませてもらおうと思って、そうだと述べたのであり、また、同人は、取調当時、左側の頭や顔が痛くなる病気に罹っており痛みが出るといらいらする状態になった旨供述する(第九ないし第一一回公判調書)。しかし、右検察官調書には、九月一日の行動につき、むち打ち症のため入院中の妻を見舞ったこと、その際三附夫婦と出会い同人らとともに一葉寿司へ行き食事をしたこと等の具体的な事実を交えながらの詳細な供述記載があるうえ、九月二日が兄の命日であるためその晩は両親の家に帰る予定でいたが、飲み歩くうちにそれを忘れ三木の小南方へ戻ったところ鳴海がいなくなっていた旨その日付について具体的な根拠を示しつつ特定しているのに対し、右公判供述は、従前の供述を変更するものでありながら、八月末ころという点につき何ら具体的な根拠を示していないものであり、一方、小南は公判においても、九月二日が兄の命日であること、当時妻が入院していたこと、三附夫婦と病院で出会い同人らとともに一葉寿司へ行ったことの各事実は認めていることや、小南と被告人らとの関係、更には、小南が別件の公判において鳴海は九月一日ころ小南方からいなくなった旨供述していた事実が窺われること等を考慮するならば、鳴海がいなくなった時期に関する小南の公判供述は信用できず、小南の検察官調書での供述内容こそ信用できるものと認められる。そして、この点は鳴海が八月二八、九日ころ知らない間に小南方を出てどこかへ行ってしまったとの被告人秋丸の前記弁解を崩す反面、同年九月一日夜被告人らによって鳴海に対する本件犯行がなされたとの被告人両名の自白の強い裏付けとなるものである。

小南安正の一一月二七日付検察官調書によれば、同人は鳴海がいなくなってから、二、三日後に小南方で鳴海が使っていた夏布団がなくなっているのに気付いた事実が認められる。

この点について、小南は、公判廷においても布団がなくなった事実は認めるものの、布団が夏布団かどうかははっきりしない旨供述しており、また布団がなくなっているのに気付いたのはもっと大分あとになってからであり、死体発見後一週間位してからのことであるとしているが、その供述するところはあいまいであり、同人が検察官調書において述べているように、鳴海が小南方からいなくなるのとほぼ時期を同じくして同人方にあった夏布団がなくなった点は証拠上動かし難い事実であると認められる。そして、このように夏布団が紛失したことにつき他に原因は考えられない以上、それは被告人両名が自白するように、鳴海を車のトランクに積んだ後、トランクに詰められたことによるものではないかとの推測を強く持たせるものであり、この点も被告人らの自白の信用性を高めるに十分なものと認められる。

関係証拠によれば、昭和五三年九月当時小南方には、鳴海の死体の両手首及び両足首を緊縛していた日本手拭と同じ意匠の日本手拭が相当数あったことが明らかである。このこと自体被告人両名の自白の裏付けとなるものであるが、更に、小南安正の一一月二七日付検察官調書によれば、被告人秋丸は、九月二四日午前二時ころ村岡明美方に訪れた小南に対し、当時小南方に残っていた日本手拭をすべて処分するよう指示したことが認められる。この点に関し、小南は公判において、小南方の水屋の中に残っていた三本位の手拭を持ち出し、これを同人の親の家の近所で焼いた点は認めながらも、手拭の処分につき被告人秋丸から指示されたことはないと供述し(第一〇回公判調書)、右のように手拭を処分した日時は、九月中旬から下旬に志染小学校創立百周年記念の手拭の売り先等につき警察で事情聴取された後であり、また、小南方のドアの取手などを拭いたのと同じ日である旨述べているだけであるけれども、右の小南の公判供述は、一方では、ドアの取手を拭いたり手拭を焼いたりしたのは鳴海を匿っていた事実を隠すためであると述べながら、ドアの取手を拭いたのは鳴海の指紋を消すためではなかったかとの検察官からの再三にわたる尋問に対し、これを否定するなど、それ自体不合理なものとなっているうえ、犯人蔵匿にのみ関与しその発覚を恐れていたはずの同人が、ドアの取手を拭くなど鳴海のいた痕跡を消す行為にとどまらず、何故新品の手拭の処分まで行なったのかとの点につき理由を明らかにしていないなど不自然な点も存するのであり、結局、小南の、被告人秋丸から指示されたものではない旨の右公判供述は信用できないものと判断せざるを得ない。これに対し、同人の前記検察官調書においては、同人は九月二四日午前二時ころ、予め電話連絡をとったうえ、村岡明美方にいた被告人秋丸を訪ね、かねて手拭のことにつき事情聴取したい旨警察から連絡を受けていたためその日に出頭する予定でいることを同被告人に告げたところ、同被告人から「朝のうちに清ちゃんの指紋消しといてくれ」、「茶碗なんかも拭いといてくれ、とにかく清ちゃんが居たという証拠を残さないようにするんだ、日本手拭も残っていたら始末しててくれ」などと指示され、同日午前六時ころ村岡方を出て小南方へ行き、一時間位かけて鳴海の触ったと思われる所を雑巾で拭くなど鳴海がいた痕跡を残さぬよう処置したうえ、手拭三本については、これを村岡方へ持って行き、同所付近のゴミ捨て場で新聞紙に包んで燃した旨供述し、日時、行動について具体的かつ詳細な供述となっているうえその内容も合理的であって、右供述は十分信用できるものと認められる。他方、被告人秋丸は、その一一月一七日付司法警察員調書、同月二〇日付検察官調書において、右小南の検察官調書に沿う供述をしており、しかも、これらの供述調書によれば、同被告人が鳴海の手足を縛っていた手拭の意匠につき新聞報道のなされたことを知ったのは、右のように小南に対し手拭を処分するよう指示した後であることが認められる。そして、被告人秋丸が、鳴海の手足を緊縛していた手拭の意匠が広く報道される以前に、小南に対して、鳴海の蔵匿と結びつく指紋の除去等の指示にとどまらず、これとは直接に結びつかない手拭の処分まで指示するということは、同被告人がこれと同一意匠の手拭が鳴海殺害と関係を持つことを知っていなかったとするならば理解に苦しむ行動と言わなければならず、むしろ同被告人のこの行動は、同被告人らがその自白するとおり小南方にあった同一意匠の手拭で鳴海の手足を緊縛したればこそとしてはじめて無理なく理解できるのであり、この点も被告人両名の自白の信用性の強い裏付けとなるものである。

被告人三名の九月一日夜から翌二日朝までの間における行動につき、被告人らの主張するところは、いずれもこれを裏付けるべき客観的証拠に乏しいばかりでなく、却って、A子の一一月二五日付検察官調書によれば、被告人衣笠は、九月二日午前三時三〇分ころ帰宅したことが窺われ、また、B子の検察官調書によれば、被告人田中は、八月三一日か九月一日の午後一一時ころ、電話を受け、その後、「頭(衣笠)が呼んでいるから行ってくる」と言って出掛けて行き、翌日の午前二時三〇分から同三時ころまでの間に帰宅したことがあったことが認められる。もっとも、B子は、公判廷においては、このようなことがあったかどうかにつきはっきりとは覚えていないないしはなかったと供述しているけれども(第一三回公判調書)、右公判供述は全体的にあいまいであるのみならず、捜査当時、夫である被告人田中の不利となると思われる前記のような供述を記憶に反してなしたとする理由もにわかに納得できず、これに対して検察官調書は、被告人田中の誕生日及びその頃の夜のテレビ番組と結びつけて前記のような事実を具体的に述べているものであり、信用に値いする。すなわち、右A子及びB子の各検察官調書も、本件当夜における行動に関する被告人両名の自白を裏付けるものというべきである。

⑤ なお、被告人田中及び同秋丸の各自白につき前記4(一)(2)で指摘した供述の変遷或いは被告人間の供述の食い違い等があることについて考えるに、既に述べたように、それらは被告人田中及び同秋丸がその記憶に基づいて供述し、捜査官による無理な誘導が行なわれていないことを推認させるものと認められるところ、これらの自白調書の作成は犯行後二か月近く経過した後になされたものであり、そうであれば、自己の体験したことについても記憶が薄れ、その結果、供述内容が若干変遷し、あるいは被告人間において供述の食い違いが生ずることも十分起こり得る事態であるうえ、少なくとも被告人田中、同秋丸に関する限り、小南方における鳴海に対する行為は、その手段方法等について十分計画をめぐらしたゆとりのある心理状態でなされたものとは認められず、あるいは緊張しあるいは動揺し、特に鳴海の緊縛は短時間内に大急ぎでなされたものと推認するに難くないから、一層そのような事態が生じ得ると認められるのである。前記の供述の変遷等をすべてこのような説明で理解することには若干疑義も残るところであるが、前述した自白の信用性を肯認し得る諸事情と対比し、この点は、被告人らの自白が大綱において信用できるとする結論に影響を及ぼすものではないと考える。

⑥ 以上検討したとおり、被告人両名の自白は、それがなされた経緯、その内容が詳細かつ具体的であるうえ真実味が認められること、両名の自白が大筋において一致しているうえ多くの点で客観的状況と符合していることなどからみて、その大綱においては十分に信用できるものと認められる。

(4) なお、弁護人からは、自白調書の信用性に関し多くの疑問点が指摘されているので、以下、そのうち重要と思われるものにつき更に若干の説明を加えることとする。

① 道路工事について

弁護人は、小南方へ向う途中、広野ゴルフ場手前付近で道路工事をしており片側通行となっていた旨の被告人田中の捜査段階での供述(一一月二二日付、同月二七日付各司法警察員調書、同月二五日付、同月三〇日付各検察官調書)は事実に反するものであって、このような供述を含む被告人田中の自白は信用性がないと主張する。そこで検討すると、証人中蔦善臣及び同樋口幸男の公判供述並びに「神戸三木線復旧工事の工期の照会について」と題する書面によれば、昭和五三年六月ころから同年九月ころまでの間の県道神戸三木線における道路工事現場としては「西盛工区」と「布施畑工区」の二か所が存在することが認められるが、このうち被告人田中の供述に該当するものは「広野ゴルフ場の手前」との表現から考えて右「西盛工区」を指すものと認められる。なお、この点については、捜査段階の同年一一月二九日に実施された検証の際、道路工事をしていた場所である旨の同被告人の指示により撮影された写真によっても、同被告人の供述は「布施畑工区」を指すものではないと認められる。そして、右中蔦善臣の供述等の証拠によれば、右「西盛工区」の工事は同年八月一〇日には完了していたことが認められるから、九月一日に同所で道路工事をしていた旨の被告人田中の供述は事実に反するものと認められる。ところで、右のような客観的事実に反する供述がなされるに至った事情は明らかではなく、一応、工事期間を誤認した捜査官の誤導によるものとの想定もできないではないが、被告人田中の公判供述によっても、右の点につき捜査官から明確な示唆があったものとは認めることができず、同被告人の「以前(七月中旬)名古屋から小南方まで鳴海を運んだ時に、ゴルフ場の手前で工事をしていたことは、自白当時頭にあった」旨の公判供述(第三七回公判)が存することや、道路工事に関する供述が本件犯行後八〇日余り経過した後になされていることなどに照らせば、同被告人自身が、七月中旬の記憶を本件当時のものと混同して供述し、あるいは故意に虚偽の供述を行なったことも十分考えられるところであって、そうだとすれば、右のような事実に反する供述が含まれているからといって直ちにその自白全体の信用性が失なわれるものと解さなければならないわけではないというべきである。

②小南方門扉の存在について

弁護人は、被告人田中の自白によれば、九月一日小南方正門には一メートル位の鉄製の門扉があったとされているが、当時門扉はなかったのであるから、同被告人の自白は事実に反し信用できないとする。たしかに、被告人田中は一一月二三日付司法警察員調書において弁護人の指摘するような供述をしているところ、《証拠省略》によれば、小南方の門扉が取付けられたのは一〇月に入ってからであると認められるから、同被告人の右供述は事実に反するというほかはない。しかし、この点については、事件後八〇日余を経た取調当時において被告人田中が記憶違いをしていたと考える余地もないではなく、現に同被告人は、一一月五日付及び同月二五日付検察官調書においては、小南方前面の鉄柵の点については触れながら門扉の点については何ら供述しておらず、むしろその存在を否定する趣旨の供述をしているものと認められるから、右の門扉の点も同被告人の自白全体が信用できないとする根拠となるものではない。

③鳴海が抵抗しなかった点について

弁護人は、被告人三名が鳴海に襲いかかった際、同人がほとんど抵抗をしなかったとする被告人田中及び同秋丸の各自白は、鳴海の性格や、同人が八月下旬以降落ち着きを失ない、怒りっぽくなっていたとの事情に照らし不合理であり信用性を欠く旨主張する。しかし、この点については、右自白自体から明らかなとおり、右襲撃は約一か月半の長期にわたり鳴海を匿い身の回りの世話をしていた被告人らによって全く不意を突かれた形でなされたのであり、鳴海としては抵抗する心理的余裕がなかったとも考えられるし、また、同人がその場の状況から事態を察知しいわば覚悟を決め、しかし殺されるとまでは思わず抵抗しなかったものとも考えられる。このように、同人が抵抗しなかったことについては一応合理的な理由も想定し得る以上、抵抗がなかった旨の供述の信用性を否定する理由はないものと認められる。

④手拭の結び方について

弁護人は、鳴海の死体の両手首及び両足首をそれぞれ緊縛していた日本手拭の結び方が異なることを指摘し、人の紐等の結び方は習慣的に一定しているはずであって、右の手首と足首とはそれぞれ別人によって縛られたものと考えるのが合理的であるのに、これが被告人田中一人によって行なわれたとする同田中及び同秋丸の各供述は不自然であり信用できないと主張するが、紐の結び方が人により一定しているとは必ずしも言えないうえ、本件のような緊迫した状況の下では、極度の精神的緊張を伴いながら、不自然な姿勢のまま、しかも大急ぎで緊縛行為がなされたものと考えられるところ、このような場合においては、自己の習慣どおりの結び方ができない事態も十分あり得るものと認められるのであって、鳴海の手首と足首の両方が被告人田中一人によって縛られたとする右自白に所論のような不自然さがあるものとは認められない。

⑤萩原及び本岡が自動車に気付かなかった点について

弁護人は、小南方前に車が停まっておれば、その横を車で通る際には、その車の存在が必然的に視野に入るはずであるにもかかわらず、萩原及び本岡は、小南方前に三人位の男が立っているのを目撃していながら自動車を見ていないのであるから、当時、同所には車は停まっていなかったものと考えるほかなく、結局、衣笠の自動車が停まっていたとする被告人田中、同秋丸の自白は信用できないものであると主張する。

そこで検討すると、裁判所の検証調書(昭和五五年九月二〇日付)によれば、小南方前に夜間自動車が駐車していたとすれば、その側方を通過する際、駐車中の自動車の存在は視野に入ることが認められるのであるが、前記本岡は、公判廷において、車は停まっていなかったと思う旨供述し、また、萩原は、「車がいたという記憶も、いなかったという記憶もありません」と供述している(いずれも第四回公判調書)。しかしながら、右両名のうち本岡は検察官調書においては車が停まっていたようにも思うと供述しており、また右両名の公判供述によれば、当時の右両名の関心は、主として、小南方前にいた三人の男の動静に向けられていたことが窺われるから、車の存在は同人らにとって特に印象に残る性質のものではなく、時の経過とともにその際の記憶が薄れ、関心が向けられていた三人の男についての記憶のみが残るということも十分あり得るものと認められるのであって、萩原及び本岡の各公判供述によって直ちに当時小南方前に自動車はなかったと断定し、被告人らの自白が信用できないものと解さなければならない理由はないというべきである。

⑥ガムテープから指紋が検出されていない点について

弁護人は、被告人らの自白どおりの方法で鳴海にガムテープを巻き付ければ、ガムテープには必ず指紋が残るはずであるのに、本件においてはガムテープから被告人らの指紋が検出されていないのであるから、被告人らの自白は信用できないと主張する。そこで検討するに、証人大森良春の公判供述(第三三回公判)によれば、同人は、一一月一〇日鳴海の死体発見場所の東側斜面で発見されたガムテープ(鳴海の死体に巻かれていたガムテープと同種類と認められる)につき、指紋採取の準備作業を行なったものの、結局指紋は検出されずに終わったことが認められるのであるが、同人は、この種のガムテープからの指紋採取は非常に困難であって、現実には検出されない方が多い旨供述しており、右供述に徴すれば、本件において、ガムテープからおよそ人の指紋は検出不可能であったことが推認できるのであって、被告人らの指紋が検出されていないことをもって、被告人らの自白の信用性を否定することはできないものと認められる。

以上のほか、弁護人の指摘する疑問点のすべてを念頭においても、被告人両名の自白が大綱において信用できるとする当裁判所の前記判断を覆えすに足るものとは認められない。

(5) 以上詳論したとおり、被告人両名の自白中小南方を出発するまでの部分には信用性が認められ、ほかに、逃走中絶えず周囲に対する警戒を怠っていなかったと認められる鳴海がパジャマ姿で緊縛されているという事実は気を許していた場所で虚をつかれたとしか考えようがないこと及び被告人秋丸が公判廷で供述するように、鳴海が八月二八、九日頃無断でどこかへ出ていったものとすれば、それ以前に鳴海が無断で大阪市西成区へ舞い戻ったときの被告人衣笠ら忠成会関係者の対応などからみて、右忠成会関係者において必死に鳴海の行方を追うはずであり、特に鳴海の属する大日本正義団の会長である吉田芳幸に対しては当然頻繁に鳴海の消息を尋ねるものと思われるのに、そのような形跡は全くないこと(吉田芳幸の検察官調書)などをも併せ考えると、判示第二の小南方での被告人らの行動はその証明が十分である。

(二) 小南方を出発してからの部分

(1) ところで、検察官は、更に被告人衣笠及び同田中が、前記小南方を出発した後、神戸市北区有馬町六甲山一九一九の一先の県道明石・神戸・宝塚線瑞宝寺谷付近路上まで、鳴海を前記のとおり自動車のトランク内に入れたまま搬送し、同年九月二日午前二時前ころ、同所付近路上において、被告人衣笠及び同田中の両名が、同車のトランク内から右鳴海を路上に抱え降ろし、被告人衣笠が右鳴海を同所路肩から西側の瑞宝寺谷に向けて、約一五二メートル下方の同谷堰堤下付近まで滑り落し、あるいは引きずり降ろし、右堰堤下付近において、身動きのできない同人の胸背部を所携の登山ナイフ様のもので数回突き刺し、よって、そのころ同所で同人を心臓刺創により失血死させて殺害した旨公訴事実中で主張するところ、右事実に沿う証拠としては、被告人田中の自自が主たるものであり、かつそれについては小南方を出発するまでの部分と異なり、相互補強すべき被告人秋丸の自白がないとともに犯行前後の目撃者も居らず、反面、捜査官としてもこのような状況下においては小南方を出発するまでの自白を得た場合とは、取調の方法等が異なるという事態も想定し得るところである。したがって、右被告人田中の自白については一層慎重な検討が必要と思われるので、以下このことを念頭に置き判断を加えることとする。

(2) まず、小南方を出発してからの状況を述べる被告人田中の自白の概要は、次のとおりである。

自動車は、西神戸有料道路を通り、夢野交差点、平野交差点を経て有馬街道へ出て、無人の裏六甲ドライブウェイ料金所を通過して六甲山頂上へ走り続けた。一時間半か二時間位走ってS字カーブを過ぎ、ガードレールが切れたところで、衣笠は車を道路脇に停め車から降り、自分も続いて降り、衣笠の指示で鳴海の手足を二人で持ってトランク内からその身体を道路上に降ろした。衣笠は、いきなり鳴海の腰付近を抱えるようにして道路脇の藪のようになった斜面に放り投げ鳴海は下の方へ落ちて行った。衣笠はその後を追うようにして藪の中に飛び込んで行った。トランクを閉め助手席に乗って待っていると、二〇分くらいたったころ衣笠が藪の中からはい上って来て荒い息をさせて運転席に乗り込んで来た。衣笠の手の甲には鶏卵大の大きさの血がついており、同人は白いハンカチでそれを拭き、「二、三回突き刺してきた」と言っていたが、そのとき衣笠は登山ナイフのような刃物を手にしていた。しばらく息をはずませた後、衣笠は自動車を発進させ、少し走ってからUターンしてもと来た道を引き返したが、途中から往路とはコースを変え、表六甲有料道路を通り、阪急西灘駅前に出て自宅のある大東物産ビルの前で停車し、自分はそこで降り衣笠と別れた。その際衣笠の指示で、小南方を出発する際に秋丸から受け取った鳴海の荷物を入れた青色ビニール袋を同ビル前路上のごみ置場に既に置かれていた一〇個程のビニール袋の真ん中あたりに捨てた。

(3) 被告人田中の右自白は詳細かつ具体的であるのみならず、その信用性を裏付けるものとして次のような諸点が存在する。

①司法警察員作成の昭和五三年一一月一〇日付捜査報告書によれば、同日実施の同行見分の際、同被告人が自ら鳴海の死体が発見された瑞宝寺谷々底の上方の、鳴海を車から降ろしたと自白した地点と客観的に認められる場所を的確に指示したとされていること、

②被告人田中の自白において、被告人衣笠が鳴海を瑞宝寺谷に向けて運び降ろしたとする地点から、本件死体発見現場まで降りることは、現実に可能であり、また、捜査官証言によれば、この経路は、同田中の自白によって初めて判明したものであること、

③右経路の途中から、鳴海の死体に巻かれていたものと同質のガムテープ片及びボタン一個が発見され、右ガムテープ片には毛髪が付着しており、その後行われた鑑定の結果、右ガムテープには鳴海の着用していたパジャマの繊維及び小南方一階六畳間のじゅうたん繊維とそれぞれ同質同色の繊維片が付着しており、右ボタンも鳴海の着用していたパジャマ上衣のボタンと同質であるとされたほか、右ガムテープに付着していたものとして鑑定嘱託された毛髪が鳴海の頭髪と酷似するものと認められたこと、

④鳴海を搬送する途中通過した裏六甲有料道路の料金所が当時無人であった旨の被告人田中の自白が捜査照会の結果と符合していること、

⑤逮捕監禁、殺人幇助容疑についての勾留質問時(昭和五三年一一月一五日)においても、被告人田中は、被疑事実を認めたうえ、「私は唯事ではないと思いましたが、殺害するつもりであるとは知りませんでした」などと当時の心境についても供述していること。

以上の諸点は、被告人田中の自白を一応真実と思わせるものであると言える。

(4) しかしながら、他方、被告人田中の自白については、少なくとも以下に指摘するような重要な疑問点が存することを否定できない。

①衣笠が鳴海を投げ込んだ後戻って来るまでの時間について

被告人田中の自白によれば、同衣笠は、車のトランクから降ろした鳴海を道路脇の藪の中に投げ込んだ後、自らも藪の中に飛び込んで行き、約二〇分後に息を切らせながら戻って来たというのである。そこで、この点について検討するが、裁判所の昭和五六年二月二七日付、同年九月九日付各検証調書等によれば、鳴海の死体発見現場は、県道上の田中の指示する地点から約一五〇メートルの距離にあり、その間の経路は、終始三〇ないし四五度の急な傾斜面であるうえ、足場ももろく、途中には傾斜六〇度ないし九〇度、高さ一・一メートルないし二・四メートルの石積みも三か所あり、また、所によっては、樹木、熊笹、雑草が繁茂している状況にあり、また、右昭和五六年二月二七日付検証調書によれば、裁判所が昭和五五年九月六日実施した検証の際、模擬人体を用いて行なった実験の結果、日中においても右往復には一九分二七秒間を要していることが明らかである。しかも、右検証調書によれば、夜間において現場はきわめて暗く右と同じ実験を行うのは危険が伴うほどであると認められ、そのような条件下において、被告人田中の自白するとおり衣笠が照明器具を用いることなしに、かつ危険防止と道に迷わないことに配慮しつつ(前記日中の実験の際ですら、実験者は復路においては往路から若干はずれたコースを取ったことが認められる)約二〇分間で同所を往復することはきわめて困難であると判断せざるを得ず、また、衣笠において、当時人目を避けるには早いに越したことはなかったとはいえ、寸刻を惜しむ程急がなければならない事情があったものとは認められないことなどをも考えると、「二〇分」という供述はある程度の幅をもつものと解せられること、殺人という重大犯罪を実行しつつあった者と検証の際の実験者とでは心理状態にも大きな差があり、右往復所要時間につき両者を単純に比較することは必ずしも適切ではないことなどの事情を考慮に入れても、被告人田中の右自白は、客観的状況に合致せず、不合理なものと認めざるを得ない。

②衣笠が戻ってから運転を開始するまでの時間について

被告人田中の自白によれば、衣笠は右のように藪の中から県道上に戻って来て自動車の運転席に座ったものの、しばらくは息をはずませ、左手をハンドルの上に置き頭をハンドルにもたれさせた状態でぐったりしており、その後エンジンをかけて車を発進させたというのであるが、運転席に戻ってから運転を始めるまでの時間については若干供述の変遷が存するものの、概ね二、三分ないし数分であった旨供述している。しかしながら、前記裁判所の検証の際の実験においても、実験者は、路肩まで上り道路脇のコンクリート上で息苦しそうに横になったが、その顔色は真っ青で唇は白くからからになっており、そのままの状態で約四分間休憩してようやく顔色が戻ったのであって、この実験結果のほか、前記のとおり、衣笠において寸刻を惜しむ程急がなければならない事情はなかったものと考えられること及び運転ができる被告人田中がそばにおり、衣笠として右田中に運転を代って貰うのに何ら支障はなかったと考えられることなどからみて、二、三分ないし数分で衣笠が運転を開始した旨の被告人田中の自白は相当疑わしいものと考えざるを得ない。

③着衣の損傷状況について

前記のとおり鳴海を道路脇の藪の中へ投げ込んだ後、衣笠がいかなる方法で鳴海を死体発見現場まで運んだのかという点については被告人田中の自白には表われていないのであるが、これが衣笠一人によってなされたもので、同人はまず、鳴海を抱きかかえるようにしながらこれを藪の中へ投げ落とし、その後を追ったものであるとし、その際衣笠が鳴海を運ぶための道具を用いたことを窺わせるような供述をしていない被告人田中の自白を前提とし、同所付近の地形や植物の繁茂状況等を考慮しつつこれを推認する限り、結局、鳴海の身体を斜面に沿って滑らせたり、引きずったりするなどの態様以外の方法は想定し得ないのであり、そうだとすれば、衣笠が鳴海を運んだ方法は、前記裁判所の検証の際の実験において、実験者が行なった方法と大差はないものと認めることができる。しかしながら、右実験の結果によれば、模擬人体に着用させたパジャマの上衣は、右肩部及び背中から腰部にかけて大きな裂傷を生じたほか、上衣及びズボンとも背部を中心として小さな疵跡が多数認められ、右のような方法による限り、この程度の着衣の損傷は当然生ずべきものと認められるところ、鳴海の死体の着衣には前記第二、一1(二)(2)で触れたとおり刃物によると思料される損傷のほかには目立った損傷は存しないのであって、この点から考えても、被告人田中の自白には客観的状況に符合しないと認められる不合理な部分が存すると判断せざるを得ない。

④車をユーターンさせた場所について

被告人田中の自白によれば、衣笠は、鳴海を投げ込んだ藪の中から戻った後、自動車を発進させ、少し走ってから、ユーターンさせて神戸市の市街地へ向かったものであるとするが、そのユーターンの場所について、一一月五日の取調においては、「三〇メートルほど進んだ所」(同日付司法警察員、検察官調書)と供述していたものの、同月一〇日の取調においては、「五〇〇メートル位はゆうに走っている」(同日付検察官調書)と供述し、その内容を大幅に変更し、以後概ね五、六〇〇メートルとの供述を維持しているのであるが、ともに犯行当時の記憶に基づく供述であるとしながら、何らの理由を付することなく、右のような大幅な供述の変更を行なうこと自体、不自然であると認められるのであり、その供述の信用性には疑問を抱かざるを得ない。

⑤ 車を停めた場所に関する供述内容について

被告人田中は、同衣笠が六甲山瑞宝寺谷付近において、車を停車した場所につき、一一月五日の取調においては、「一時間半から二時間位走ったところでSカーブになった下り坂から登り坂にさしかかったところ」(同日付司法警察員調書)と概略的な供述をしていたのであるが、その後、「Sカーブのガードレールを走り過ぎてややまっすぐになったところで進行方向に向って右側の方に土手の切れ目があり、その土手は人が手を加えた様になった白っぽい土手があったように思いますがこの土手の切れ目から幾等位走ったかわかりませんが一寸走ったところで左側が藪になっている様な所で車を停めた」(同月九日付司法警察員調書)との供述を経て、同月一〇日の取調においては、「エス字カーブをまわって……左手にガードレールのあるカーブを左に折れると右手の方に何か土手の切れ目のような所が見えました。そしてこの切れ目から背の高さより高い白っぽい土手のようなものが続いていたのです。夜のことではっきりとは判りませんでしたがこの土手のようなものは自然に出来たような感じではなく人が手を加えて作ったように見えました。ガードレールのあるカーブを曲って少し走ると左手のガードレールが切れて藪のようになっていました。そして今度は右の方に曲るカーブが見えその手前で車が停ったのです」(同日付検察官調書)と現場付近の状況につき非常に詳細な供述を行なうに至っている。そしてこの供述は、関係各証拠によって認めることのできるその現場付近の状況と概ね一致するのであるが、犯行に際し、夜間、衣笠の運転する自動車の助手席に同乗し、その行先や目的も告げられないまま現場へ赴いたに過ぎない被告人田中が、その当時の記憶だけに基づいてこのような詳細な供述を行っていることは、それ自体、当時の異常な事態においては印象が特に強く、その記憶も通常より鮮明であろうという点を考慮しても、却って不自然であると考えざるを得ない。

ところで、一一月一〇日には、被告人田中の現場への同行見分が行なわれており、右一一月一〇日付検察官調書は、同行見分実施後の取調において作成されたものであるから、現場付近の状況に関する前記供述は、当然同行見分の際の新しい記憶に基づく部分が多いものと考えられ、そのように解することによって初めて右詳細な供述をなし得た理由も納得し得るのであるが、右一一月一〇日付検察官調書では、現場の状況に関する供述はあくまでも被告人田中の本件犯行当時における記憶に基づくものとして記載されているばかりでなく、右調書の末尾には、被告人田中が六甲山を訪れた回数や、本件犯行後に現場へ行ったことがあるか否か等につき問答形式による供述録取部分があるにもかかわらず、右同行見分については何ら言及されていない。この点については、右取調を担当した検察官において、現場の状況に関する供述を得るに当たっては、当日同行見分が行なわれていたことが重要な意味を持つものであるにもかかわらず、その事実を知らされていなかったのか、あるいは、同検察官は、同行見分が行なわれたことを知りながら、調書作成に当たりことさらにその記載を避けたものであるか、いずれかであると考えられるのであるが、いずれにしても、捜査官側において不手際ないし公正さを疑わせる面の存することを否定し得ず、このような経緯でなされた右自白につき信用性を肯定することはできないものと認めざるを得ない。

(5) 以上のとおり、被告人田中の小南方を出発してからの部分に関する自白には、不合理な部分や供述過程での不自然な点が多数存在し、その信用性には疑問を持たざるを得ないのであるが、このような疑問を前提として、改めて、前記(二)(3)で触れた自白の信用性を一応高めるものとして挙げた諸点につき、検討を加えておくこととする。

① まず、一一月一〇日実施の同行見分の際、被告人田中が的確に現場を指示したとの点であるが、被告人田中の自白によれば、犯行当時、同被告人は同衣笠がどこで車を停めるかについて予め知らされることなく、夜間、六甲山中のドライブウエーを通って現場に到着したのであるが、このような同被告人が、昼間行なわれた同行見分に際し、本件現場付近と類似するカーブ等が多数存在する六甲山中のドライブウエーにおいて、二か月以上も前の記憶だけで、さ程の困難を伴うことなく停車地点と認められる場所を指示することができたとすることは、本件犯行が同人にとって異常な体験であったことなどを考慮に入れても、むしろ不自然であると考えられる。右同行見分について、これを担当した警察官持留健二、同尾迫安男はいずれも公判において、被告人田中の方から現場の指示を行なったのであり、その指示によって初めて現場を特定した旨強調しているのであるが、検察官高田謙、同坂井靖はいずれも、一一月七、八日ころ、田中の自白又はその作成にかかる図面に基づいて本件現場へ赴き、同所から死体発見現場付近へ向けて斜面を降りてみた旨供述しており、しかも、右高田謙の公判供述によれば、右検察官らが現場へ行く前に警察官が現場を訪れていることが認められるのであって、これらの事実をも考慮すると、前記持留、尾迫の公判供述はそのまま信用することはできないものと認めざるを得ない。

② 次に、県道から死体発見現場までの経路については、捜査官によれば、田中の自白によって初めて判明したものであるというのであるが、裁判所の昭和五六年二月二七日付、同年九月九日付各検証調書によれば、確かに、右経路の降り口を県道上から探し出すことは容易でないものの、前記死体発見現場からは東側の県道方向に至る経路としてかなり容易に発見できると認められるのであり、現に、司法警察員作成の九月二五日付検証調書においても、右経路につき、ロープを使用し、又は立木につかまるなどすれば、登り下りは可能である旨の記載が存するのであって、当時、右経路が、捜査官によって鳴海の搬入経路として考えられていたか否かは別としても、捜査官、少なくとも警察官に右経路の存在が判明していたことは明らかであるといえる。したがって真犯人でなければ右経路を指示することができないとは言えないのであって、田中の自白中に右経路を指示した部分が存するからといって、直ちにその自白が信用できるものであるとは認めることができない。

③ 次に、一一月一〇日に発見されたガムテープ片及びボタンについてであるが、これらについての捜査段階における鑑定結果は、右ボタン及びガムテープに付着していたとされる繊維につき、それぞれ鳴海のパジャマ上衣のボタン及びパジャマや小南方一階六畳間のじゅうたんの繊維との比較において、いずれも同質又は同質同色とするものであって(信西清人作成の鑑定書及び同人の公判供述)、右のガムテープが鳴海の身体に巻かれていたものの一部であるとするならば、一応、田中の自供する鳴海の搬入経路に鳴海の身体の付着ないし付属物が遺留されていた事実を推認させるものである(右のガムテープは輪状に重なり合った状態で刃物様のもので切断されていることが認められるが、これは鳴海の搬送途中右ガムテープが障害物に引かかったのを除去するため行ったとも解し得るから、右の点から直ちに、右ガムテープが鳴海の身体に巻かれていたものの一部でないと断ずることは相当でない)。しかし、右の搬入経路が他から予測し得ない、それ自体被告人らが真犯人であることを物語るようなものとは認められないことは前述したとおりであり、被告人ら以外の者が同一経路によって鳴海の身体を引きずるなどしても同一の事態が生じ得ると考えられる以上、このことも、田中の自白の真実性を裏付けるほどの証拠価値を有するものとは認め難い。なお、前記鑑定結果中には、右ガムテープ片から採取された毛髪と鳴海清の頭髪は酷似するとの部分も存するのであるが、証人大森良春(特に第七回公判)及び同信西清人の各公判供述を対比するならば、右ガムテープ片から採取された毛髪と鑑定に付された毛髪とは別のものではないかとの疑いも存するのであって、右鑑定結果は、この点からも田中の自白を裏付けるに足るものと認めることができない。

④ 更に裏六甲有料道路の料金所が当時無人であった点については、真犯人でなければ知り得ないという事実でもないこと、また昭和五三年一一月一五日の勾留質問の際に、被告人田中が殺人幇助の事実を一応認めた点は無視できないところではあるけれども、右供述が同年一一月五日からなされている右事実についての自白の過程でなされたものであり、その供述も概略的なものであること、更に右勾留質問後もそれ以前と比較して特に同人の自白の内容につき変遷を来たしたとも認められないことなどに徴すれば、勾留質問において事実を認めたことをもって直ちに同被告人の自白が信用できるものとすることはできないと判断せざるを得ない。

以上のとおり、被告人田中の自白の信用性を高めるものと考えられた諸点も、これを仔細に検討すれば、いずれも右自白の裏付けとなるものとは認め難く、却って、捜査の過程につき疑問を抱かせる点さえ存するのであって、結局、小南方を出発してからの部分に関する被告人田中の自白は信用することができないものと認められる。

三  被告人衣笠につき殺人罪を認定し、かつ同田中につき監禁罪の成立のみを認定した理由

1 小南方を出発してからの部分に関する被告人田中の自白は、前記のとおり信用性がなく、かつ他に小南方を出てからの被告人衣笠、同田中の行動を直接明らかにする証拠はないものと言わなければならない。しかし、他方、本件においては、被告人田中の右自白を離れても、次に述べるような事実を認めることができる。

(一) 鳴海が殺害された時期等について

被告人衣笠及び同田中が、昭和五三年九月二日午前零時過ぎころ小南方から自動車のトランクに積んで搬出した際の鳴海の姿は、前記のとおり、パジャマを着用したうえ両手首、両足首をそれぞれ日本手拭で縛られ、頭部、頭面及び両手足等にガムテープを幾重にも巻き付けられた状態であったところ、同人はその後、右とほぼ同様の姿で死体となって発見されているのであるが、その際の緊縛の状況から判断すると、小南方から搬出された後において、鳴海が一旦その緊縛を解かれ拘束状態から、解放されたことは想定し得ないところであり、同人は、小南方から搬出された時点から以後も引き続いて同一態様の身体の拘束を受けたままの状況下において殺害されたものと認められ、しかも、以下述べる理由により、右殺害に至るまでの時間はさ程長くなかったと推認できる。すなわち、死体発見時の緊縛の状況から判断して、小南方で緊縛された後殺害されるまでの間に鳴海が食事をした事実はないものと認められるから、鳴海の死体の胃の内容物は、右のように緊縛される前に摂取した食物であると考えられるところ、被告人秋丸の検察官調書(一一月四日付)によれば、鳴海は九月一日午後八時ころから同八時三〇分ころにかけて夕食を摂ったことが認められ、一方、溝井泰彦作成の鑑定書及び同人の公判供述によれば、鳴海の死体の胃の内容物は通常の状態における食後五、六時間よりも短い時間の消化程度であったことが認められることから、前記のように推認できるのである。もっとも、右溝井泰彦の公判供述によれば、本件の鳴海のように突然襲われ手拭及びガムテープで縛り上げられるという異常な状況下においては消化活動はある程度低下するものと考えられるのであるが、その点を考慮に入れても、前記推認は左右されないと考えられる(なお、弁護人は、鑑定の結果鳴海の胃の内容物から肉片が検出されなかった点から、九月一日の夕食にはビフテキがあったとする被告人秋丸の供述全体が信用できないと主張するが、肉片が胃の中に残存した状態のまま死亡した場合であっても、胃液中に含まれる消化酵素であるペプシンの働きによって蛋白質の分解は進行すると考えられるのであって、右鑑定結果と被告人秋丸の供述とは矛盾するものではない)。そうすると、小南方において鳴海の緊縛を行い、かつ同所を出発した際にも鳴海の身体の拘束に当たっていた被告人衣笠及び同田中、特に右行為の指示ないし率先実行に当たった被告人衣笠においてはその後鳴海が殺害された時点でもこれに関わっていた蓋然性は強いと言わなければならない。

(二) 被告人衣笠の行為の目的について

ところで、鳴海を緊縛しあるいはこれを小南方から搬出するという行為は、被告人秋丸及び同田中にとっては被告人衣笠の指示に基づく行動であるのに対し、被告人衣笠にとっては、一定の意図に基づき、かつ、一定の目的に向けての行動であると認められるのであって、右のように鳴海を緊縛し、あるいはこれを小南方から搬出すること自体を目的としたものではない。そして、右の緊縛の態様が、鼻の付近を避けているとはいえ、頭部及び顔面に幾重にもガムテープを巻き付けるという異様なもので、単に同人の視界や発声を妨げるためとは考えられないものであること、前記のとおり小南方から搬出された後鳴海が殺害されるに至るまでさ程の時間を経ていないこと及び後記のとおり動機の点でも欠けるところがないことなどに徴すれば、被告人衣笠の目的としたところは鳴海を殺害することであったと考えるのが合理的である。

(三) 被告人衣笠の動機について

前掲証拠によれば、被告人ら忠成会関係者が判示第一で認定したように鳴海を蔵匿していた当時は、山口組と松田組との間で激しい抗争が続いており(いわゆる「大阪戦争」)、とりわけ、田岡一雄組長が鳴海によって狙撃されたこともあって、山口組側の松田組系暴力団関係者への報復が開始されていたため、被告人衣笠ら忠成会関係者は、同会関係者において鳴海を蔵匿していることや被告人衣笠が鳴海を唆して田岡一雄に対する挑戦状を書かせたことなどが警察当局あるいは山口組関係者に発覚するのを極度に恐れており、鳴海に対し、蔵匿先からの外出や松田組及び大日本正義団関係者との接触をも禁止していたのであるが、鳴海はこれに不満を抱き、却って、被告人衣笠らに無断で当時匿われていた前記「柳荘」を脱け出し大阪市西成区の「山水園」に戻るという身勝手な行動に出るに至り、その後「○荘」に連れ戻された後も右西成区周辺に帰りたいとの意向を表明し、これに対する忠成会側の野村理事長らの説得も功を奏せず、鳴海は再度小南方に移ってから後も気持のいら立ちから荒っぽい行動を取ったことが再三あったと認められる。そして、判示第一のように、この鳴海の蔵匿に深く関わりあっていた被告人衣笠が、その忠成会幹事長としての地位からも、また鳴海を唆かし田岡一雄に対する挑戦状を書かせた立場からも、右の鳴海の取扱いに人一倍苦慮していたことは想像に難くなく、さればといって指名手配されていた鳴海を匿っていたという既成事実の存することや暴力団内部という特殊世界のこと故尋常な手段は取り得ず、遂に、自分自身や忠成会を警察当局の追及や山口組の報復から守りその組織を防衛するためには鳴海を殺害するにしかずと考えるに至ったとしても決して不合理ではなく、すなわち、被告人衣笠には鳴海を殺害する動機が存在したということができる。

(四) 被告人衣笠が刃物を所持していたことについて

被告人秋丸の検察官調書によれば、同人は、小南方の二階に置いてあった鳴海の拳銃を同衣笠に手渡す際に、同人の右脇腹のズボンの下に、「サックに入った登山用のナイフのような感じのするもの」が差し込まれているのを目撃したことが認められるのであり(一一月二五日付検察官調書)、被告人衣笠が小南方を出発する際にもこれを所持していたものと認められること及び前記のとおり、鳴海の死因が刃物による刺創に基づく失血死であると推認されることに照らすと、被告人衣笠が所持していた右登山用ナイフ様の刃物が本件の鳴海の殺害に使用された可能性が高いものと考えられる。

2 以上の事実を総合すると、殺害時刻及び場所の詳細や殺害の具体的態様は必ずしも明らかではないものの、鳴海は前示のように被告人衣笠及び同田中により小南方から搬出された後、程なく、その拘束の続く中で被告人衣笠により死体発見場所又はその近辺において殺害されたものと認定するのが相当である。もっとも、右殺害に他の者が関わりあっており、かつ直接鳴海の殺害行為を行ったのはその者である可能性も否定できないと思われるが、そうであったとしても、その者の殺害行為が被告人衣笠の意思と無関係に実行されたとの事態は想定し得ないところであり、被告人衣笠は、その者といわば一心同体となって鳴海を殺害したものと評価し得るのであって、この場合においても被告人衣笠の刑責には変わりがないというべきである。

3 これに対し、被告人田中の小南方における鳴海を緊縛するなどの行為は、いずれも被告人衣笠の指示によるものであり、その際、被告人田中が鳴海に対し殺意を有していたり、あるいは被告人衣笠が鳴海を殺害する意図を有していることを知りつつ右緊縛等の行為をなしたものとの事実を認めるに足る証拠はなく(同被告人は、捜査当時においてもこの趣旨の供述は一切していない)、更に、その後の鳴海殺害に際し、被告人田中がいかなる態様で関与していたかについても、これを証明すべき証拠は存在せず、同被告人が殺害現場まで同行したとしても単に佇立又は傍観していた事態も想像し得る以上、被告人田中に対しては殺人又は殺人幇助の刑責は問い得ず、監禁罪の限度でのみ刑責を問い得るものというのほかない。

(累犯前科)

被告人田中末男は、昭和四一年一一月二五日神戸地方裁判所で殺人罪により懲役一〇年に処せられ、同五一年八月二六日右刑の執行を受け終わったものであって、右事実は《証拠省略》によってこれを認める。

(法令の適用)

被告人三名の判示第一の所為は、いずれも包括して刑法六〇条、一〇三条、罰金等臨時措置法三条一項一号に、被告人衣笠の判示第二の所為は、刑法一九九条(監禁の限度では更に同法六〇条)に、被告人田中及び同秋丸の判示第二の所為は、いずれも同法六〇条、二二〇条一項にそれぞれ該当するところ、各所定刑中、判示第一の罪についてはいずれも懲役刑を、被告人衣笠の判示第二の罪について有期懲役刑を、それぞれ選択し、被告人田中については、前記の前科があるので同法五六条一項、五七条によりそれぞれ再犯の加重をし、以上はいずれも同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条によりいずれも重い判示第二の罪の刑に同法四七条但書の制限内でそれぞれ法定の加重をした刑期の範囲内で被告人衣笠を懲役一〇年に、被告人田中及び同秋丸をいずれも懲役三年六月に各処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち被告人衣笠及び同田中につき七〇〇日を、被告人秋丸につき六〇〇日をそれぞれその刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により証人大森良春、同安田静男、同西中川勉、同西岡見一、同信西清人及び同持留健二に各支給した分を除き、その三分の一ずつを各被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、大日本正義団会長吉田芳幸から、三代目山口組組長田岡一雄を狙撃した同会幹部鳴海清についての蔵匿方を依頼された忠成会理事長の意向を酌んだ被告人衣笠が、輩下の同田中及び同秋丸ほか忠成会関係者らに指示し、同会の組織をあげて右鳴海を約一か月半の長期にわたって蔵匿したあげく(第一の事実)、右鳴海の身勝手な行動から右蔵匿の事実等が警察或いは山口組関係者に発覚する虞が生ずるや、同人を日本手拭、ガムテープを用いて見るも無残な姿にまで緊縛したうえ、これを自動車のトランクに押し込んで搬送して、六甲山中あるいはその近辺で殺害し(第二事実)、その死体を六甲山中に放置したというものであって、暴力団の持つ反社会的性格を如実に物語る事案である。右のうち、判示第一の犯罪は、当時友誼団体であった大日本正義団会長からの依頼を受けこれを拒絶し難い状況下で敢行されたもので動機において若干斟酌すべき点が認められないではないものの、第二の犯罪は、そもそも、鳴海の蔵匿を引き受ければ忠成会が警察からの追及や山口組からの報復の危険にさらされることを承知のうえでこれを引き受けておきながら、その危険が現実のものとなる虞が生ずるや、忠成会に累が及ぶのを防止すべく、鳴海の殺害を敢行したというもので、被告人衣笠につきその動機は極めて自己中心的であって、全く同情の余地がない。また、本件各犯行の態様をみても、いずれも被告人衣笠が中心となって、各被告人の役割分担を定めて周到な準備のもとに計画的に実行されたものであるうえ、判示第二の犯罪については冷酷残忍である反面物的証拠を残さないようにとの配慮が行き届いており巧妙であるといえる。

ところで、本件被害者である鳴海清は、暴力団幹部であり、かつ、三代目山口組組長田岡一雄を拳銃で狙撃し、これに負傷を与えるという重大な犯罪を犯した者であったとはいえ、そのことから被告人らの犯行が容認され、あるいは刑責が軽減されるべきでないことは言うまでもなく、また、同人は被害当時まだ二六歳の青年であり、当時庇護を受けていた友誼団体である忠成会関係者の手により、かくも突然にしかも無残な方法でその一命を奪われるとは、同人において、夢想だにしなかったものと考えられるのであり、その無念な思い及び残された同人の妻子等の悲嘆には察するに余りあるものがある。また、同人を匿い更にこれを殺害したことによって、鳴海の田岡一雄に対する狙撃事件については、捜査当局による真相解明が困難になってしまったという点も看過できない。

更に、これらの各事情に被告人三名の暴力団員としてのこれまでの行状及び前科・前歴を加えて検討すれば、被告人三名、とりわけ、同衣笠の刑事責任は重大という他なく、してみると、鳴海の身勝手な行動も本件第二の犯罪の遠因をなしていると認められること、第二の犯罪も鳴海に対する個人的な憎悪の感情からなされたものとは認められないこと、更に被告人田中及び同秋丸については、いずれも、被告人衣笠の指示によって本件各犯行を敢行するに及んだもので忠成会という組織における立場上被告人衣笠の命令を拒むことが困難な立場にあったこと及び捜査段階では自白して改悛の情を示していたこと等の同被告人らに有利な事情も認められるものの、前述した本件各犯行の動機、計画性、態様、手段方法及び結果の重大性等の諸事情に徴すれば、被告人三名につき、主文掲記の刑は止むを得ないところである。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林充 裁判官 鈴木輝雄 田中敦)

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